客さんは、どこへいらつしやいました。」
「お客さんか。」お爺さんは、れいに依つて言葉を濁す。
「いいえ、あなたは今たしかに誰かと話をしてゐましたよ。それも私の悪口をね。まあ、どうでせう、私にものを言ふ時には、いつも口ごもつて聞きとれないやうな大儀さうな言ひ方ばかりする癖に、あの娘さんには、まるで人が変つたみたいにあんな若やいだ声を出して、たいへんごきげんさうに、おしやべりしていらしたぢやないの。あなたこそ、まだ色気がありますよ。ありすぎて、べたべたです。」
「さうかな。」とお爺さんは、ぼんやり答へて、「しかし、誰もゐやしない。」
「からかはないで下さい。」とお婆さんは本気に怒つてしまつた様子で、どさんと縁先に腰をおろし、「あなたはいつたいこの私を、何だと思つていらつしやるのです。私はずいぶん今までこらへて来ました。あなたはもう、てんで私を馬鹿にしてしまつてゐるのですもの。そりやもう私は、育ちもよくないし学問も無いし、あなたのお話相手が出来ないかも知れませんが、でも、あんまりですわ。私だつて、若い時からあなたのお家へ奉公にあがつてあなたのお世話をさせてもらつて、それがまあ、こんな事になつて、あなたの親御さんも、あれならばなかなかしつかり者だし、せがれと一緒にさせても、――」
「嘘ばかり。」
「おや、どこが嘘なのです。私が、どんな嘘をつきました。だつて、さうぢやありませんか。あの頃、あなたの気心を一ばんよく知つてゐたのは私ぢやありませんか。私でなくちや駄目だつたんです。だから私が、一生あなたのめんだうを見てあげる事になつたんぢやありませんか。どこが、どんな工合ひに嘘なのです。それを聞かして下さい。」と顔色を変へてつめ寄る。
「みんな嘘さ。あの頃の、お前の色気つたら無かつたぜ。それだけさ。」
「それは、いつたい、どんな意味です。私には、わかりやしません。馬鹿にしないで下さい。私はあなたの為を思つて、あなたと一緒になつたのですよ。色気も何もありやしません。あなたもずいぶん下品な事を言ひますね。ぜんたい私が、あなたのやうな人と一緒になつたばかりに、朝夕どんなに淋しい思ひをしてゐるか、あなたはご存じ無いのです。たまには、優しい言葉の一つも掛けてくれるものです。他の夫婦をごらんなさい。どんなに貧乏をしてゐても、夕食の時などには楽しさうに世間話をして笑ひ合つてゐるぢやありませんか。私は決して慾張り女ではないんです。あなたのためなら、どんな事でも忍んで見せます。ただ、時たま、あなたから優しい言葉の一つも掛けてもらへたら、私はそれで満足なのですよ。」
「つまらない事を言ふ。そらぞらしい。もういい加減あきらめてゐるかと思つたら、まだ、そんなきまりきつた泣き言を並べて、局面転換を計らうとしてゐる。だめですよ。お前の言ふ事なんざ、みんなごまかしだ。その時々の安易な気分本位だ。おれをこんな無口な男にさせたのは、お前です。夕食の時の世間話なんて、たいていは近所の人の品評ぢやないか。悪口ぢやないか。それも、れいの安易な気分本位で、やたらと人の陰口をきく。おれはいままで、お前が人をほめたのを聞いた事がない。おれだつて、弱い心を持つてゐる。お前にまきこまれて、つい人の品評をしたくなる。おれには、それがこはいのだ。だから、もう誰とも口をきくまいと思つた。お前たちには、ひとの悪いところばかり眼について、自分自身のおそろしさにまるで気がついてゐないのだからな。おれは、ひとがこはい。」
「わかりました。あなたは、私にあきたのでせう。こんな婆が、鼻について来たのでせう。私には、わかつてゐますよ。さつきのお客さんは、どうしました。どこに隠れてゐるのです。たしかに若い女の声でしたわね。あんな若いのが出来たら、私のやうな婆さんと話をするのがいやになるのも、もつともです。なんだい、無慾だの何だのと悟り顔なんかしてゐても、相手が若い女だと、すぐもうわくわくして、声まで変つて、ぺちやくちやとお喋りをはじめるのだからいやになります。」
「それなら、それでよい。」
「よかありませんよ。あのお客さんは、どこにゐるのです。私だつて、挨拶を申さなければ、お客さんに失礼ですよ。かう見えても、私はこの家の主婦ですからね、挨拶をさせて下さいよ。あんまり私を蹈みつけにしては、だめです。」
「これだ。」とお爺さんは、机上で遊んでゐる雀のはうを顎でしやくつて見せる。
「え? 冗談ぢやない。雀がものを言ひますか。」
「言ふ。しかも、なかなか気のきいた事を言ふ。」
「どこまでも、そんなに意地悪く私をからかふのですね。ぢやあ、よござんす。」矢庭に腕をのばして、机上の小雀をむずと掴み、「そんな気のきいた事を言はせないやうに、舌をむしり取つてしまひませう。あなたは、ふだんからどうもこの雀を可愛がりすぎます。私には、
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