たぶんならなかったであろう。茶の湯に用いられた器具の製造のために、製陶業者のほうではあらん限りの新くふうの知恵を絞ったのであった。遠州の七窯《なながま》は日本の陶器研究者の皆よく知っているところである。わが国の織物の中には、その色彩や意匠を考案した宗匠の名を持っているものが多い。実際、芸術のいかなる方面にも、茶の宗匠がその天才の跡をのこしていないところはない。絵画、漆器に関しては彼らの尽くした莫大《ばくだい》の貢献についていうのはほとんど贅言《ぜいげん》と思われる。絵画の一大派はその源を、茶人であり同時にまた塗師《ぬし》、陶器師として有名な本阿弥光悦《ほんあみこうえつ》に発している。彼の作品に比すれば、その孫の光甫《こうほ》や甥《おい》の子|光琳《こうりん》および乾山《けんざん》の立派な作もほとんど光を失うのである。いわゆる光琳派はすべて、茶道の表現である。この派の描く太い線の中に、自然そのものの生気が存するように思われる。
 茶の宗匠が芸術界に及ぼした影響は偉大なものではあったが、彼らが処世上に及ぼした影響の大なるに比すれば、ほとんど取るに足らないものである。上流社会の慣例におけるの
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