その愛もその憂《うれ》いも、幾度も繰り返してわれわれの心に生き残って行くから。われわれの心に訴えるものは、伎倆《ぎりょう》というよりは精神であり、技術というよりも人物である。呼び声が人間味のあるものであれば、それだけにわれわれの応答は衷心から出て来る。名人とわれわれの間に、この内密の黙契があればこそ詩や小説を読んで、その主人公とともに苦しみ共に喜ぶのである。わが国の沙翁《しゃおう》近松《ちかまつ》は劇作の第一原則の一つとして、見る人に作者の秘密を打ち明かす事が重要であると定めた。弟子《でし》たちの中には幾人も、脚本をさし出して彼の称賛を得ようとした者があったが、その中で彼がおもしろいと思ったのはただ一つであった。それは、ふたごの兄弟が、人違いのために苦しむという『まちがいつづき』に多少似ている脚本であった。近松が言うには、「これこそ、劇本来の精神をそなえている。というのは、これは見る人を考えに入れているから公衆が役者よりも多く知ることを許されている。公衆は誤りの因を知っていて、哀れにも、罪もなく運命の手におちて行く舞台の上の人々を哀れむ。」と。
 大家は、東西両洋ともに、見る人を腹心の
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