別の方向に進んでゐる。君は直覺的に物を握らうとし、僕は握るまへに理知的に疑はうとする。君のやうに直截に物の掴める人は眞にうらやましい。近頃は殊に自分の思想をできるだけつきとめてみようと思つて朝から夜までほとんどぶつ通しに机にむかひ、讀書と思索とに沈潜しつゝまとまるだけ多くを纒めてかいてゐるが其の間にただ四時から落日頃までを僕の散策の時間にとつておいて此の僅かのひまを自然の懷に抱かれようとしてゐる。併し長い間、さうして室内に閉籠つてゐて自然界にでてみると自然はまるで自分をうけつけてくれない。そして思索と本當の物とはまつたく別だといふ氣が切にする。そんな時、僕はすぐに自分を反省して、自分のすがたが餘りにみすぼらしく憐れに見える。だが亦斯んな時もある。思想上では全然中世期の哲學に近づいて、或る實際主義者現實主義者からはかの煩瑣哲學の亞流として排斥せられる其の著作にしたしみつゝ、自分の思想も次第にその方向にすすむやうになつて所謂現實所謂人生からはまるで阻隔してゐながら、洛北の圃の畝に腰をおろして夕日のやすらかにいり行くのを見遣る時、自分の心臟の鼓動は遠い村村の家や森や竹藪にたなびく夕靄の中にきえていつてそこでひたすらに神を想ふやうになる。こんな時には自分の思想はすつかり自然と交融してゐるのを覺える。或は亦斯んなこともある。いくつか連つてゐる寺寺の境内をそれからそれへと歩き廻つて、と或る御堂のおくの讀經の諧音に耳をすましたり、また禪庵の柱に懸けてある偈の章句を考へたり、超俗的な※[#「木+眉」、第3水準1−85−86]間の額面の文字にひたと見入つたりしながら、自分といふもの、自分の思想といふものを全く忘れてしまつたやうになることがある。こんなにして生活する僕にとつて迷執は常に離れがたい原罪《ウアジユンデ》である。思想上では變説改論まことに恆なく、實際どれだけが自分にとつて不可疑的の部分か解らなくなつて情無くさへなる。しかし其等のすべての時に亙り、ふしぎに君の詩は僕にとつて眞實である。僕の氣分などはまるでふはふはして好惡の標準が全然の反對から反對へと動きつつあるにも拘らず君の詩はいつも僕に親昵感を與へるものである。それは實に君の詩の奇蹟だ。

 山村君
 僕の神祕的象徴主義が元來、大乘佛教の哲理からきたものだといふことは君も知つてゐる。僕は始めプラグマチズムの現實哲學に執着して
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