つた時の興奮は大したものだ。眼の前にその本があるのだ。私はそれを書架へのせて見る。いややつぱり返さうとおろして了ふ。その間の苦心たるや、全くこれは困つた病気だ。
 私は着物などは何でもよいと思つてゐる。洋服は一揃ひだけ持つてゐるけれど、和服となると常着だけしかない。その洋服も近頃は大抵は着ずに冬も夏も一着のルパシュカだけ着てゐる。これは実に便利な着物だ。上からスポリとかぶるだけで世話はなく、冬はシャツを何枚も重ねればよい。この三四年間私はただこの一着のルパシュカを着てゐるのだ。帽子は鳥打の夏帽子一つ。これで三四年の夏と冬とを越した。何処の学校へも行かないから、おしやれなどの必要はない。苦学する大学生のやうな風体で自分は散歩をするのである。ただ思ふものは自分の研究だ。本だ。気の毒なのは自分の家族である。何処からか降つて来る金でもあればよいのだが、さてさうもならないものだ。



底本:「日本の名随筆 別巻6 書斎」作品社
   1991(平成3)年8月25日第1刷発行
   1998(平成10)年1月30日第7刷発行
底本の親本:「土田杏村全集 第一五巻」第一書房
   1936(昭和1
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