――最も偉大な、また最も心ゆく楽しみである。他《ほか》でもなく、快楽の為めに書物を利用することをいふのである。書物がなければ、快楽の為めに読書する力を身につけてゐなければ、何人も独立不覊とは云ひ得ない、が、読書することができれば、我々は独り寂しくゐる際の退屈に対して、確乎たる防禦を有つてゐるわけである。その防禦がなければ、退屈を免れるのに、家族とか友達とか、時には見知らぬ人々の慈悲にさへ頼らなければならないのである。ところが、読書に快楽を見出し得るとすれば、長途の汽車の独り旅も決して退屈なことはなく、長い冬の夜も、我々に取つて快楽に対する無限の好機会なのである。
 詩は最も偉大な文学であり、詩に於ける快楽は文学的快楽中最も偉大な快楽であると前提して、我々がまだ若いうちに、少くとも三十五の春秋を重ねぬうちに、実際自分の為めに歌つてくれたと思はれる、一人、或は二三の大詩人を是非目つけなければならない。して、自分自身の体験で感じたことを歌つてゐるやうに思へる、もしくは、それが詩に於て表現されてゐるのを見るまでは気づかずにゐた我々の内部生命そのものを示現してゐるやうに思へる一人の詩人でも幸ひにこれを見出すことが出来れば、それこそ我々は一大資産を手にしたも同じである。青年時代に湧いて来た、斯かる詩に対する愛著は、決して年老ゆると共に消え去るものではない、それは我々自身の存在の緊密な一部として永久に留存し、力と慰安と快楽の確保された資源となるのであらうと彼は喝破してゐる。して、子爵自身に就いて云へば、この詩の方面に於ては、キーツ、テニソン、ブラウニングに精通し、特にウワアヅウワアスに至つては、早くからこれを愛誦し、その一言一句をも諳んじて、折に触れ事に接してこれを想ひ起し、回想記にも雑講にも随処にこれを引用してゐる。
 哲学に就いては、それと名指してはゐないが、バルフオア卿とホルデエン卿をいつてゐるやうに思はれる、政治上に活躍してゐる二知人が、趣味としてこれを読み、また始終これを筆にしてゐるのは実に奥床しき限りと賞揚してゐる。自分も牛津大学在学時代にプレトオを読まされたが、今は楽しみとして折々これを開くことがある。プレトオには到底他の哲人に見出し得ざる快楽を自分に供してくれると云つてゐる。彼が愛読の書は何といつても自然に関するものであつたらうが、それも青年時代には主としてキング
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