残されたる江戸
柴田流星

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)囈言《うわごと》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)音|喧《やかまし》からず

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「口+喜」、第3水準1−15−18]

 [#(…)]:訓点送り仮名
 (例)一[#(ト)]わたり

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)モウ/\
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 目次


江戸ッ児の教育
顔役の裔
三ヶ日と七草
揚り凧
藪入と閻魔
節分と鷽替
初卯と初午
梅と桜
弥助と甘い物
渡し船
汐干狩
山吹の名所
節句
筍めし
藤と躑躅と牡丹
初松魚
釣りと網
初袷
五月場所
花菖蒲
稗蒔
苗売り
木やり唄
浅草趣味
八百善料理
風鈴と釣忍
井戸がえ
箱庭と灯籠
定斎と小使銭
青簾
夏祭り
心太と白玉
川開き
草市と盂蘭盆
灯籠流し
蒲焼と蜆汁
丑べに
朝顔と蓮
滝あみ
虫と河鹿
走り鮎
縁日と露店
新内と声色
十五夜と二十六夜
細見と辻占売り
おさらい
常磐津、清元、歌沢
お会式
菊と紅葉
酉の市
鍋焼饂飩と稲荷鮨
からッ風
納豆と朝湯
歳の市
大晦日
見附と御門
江戸芸者と踊子
人情本と浮世絵
見番と箱屋と継ぎ棹
[#改ページ]

[#地から4字上げ]挿画・江戸川朝歌
[#地から4字上げ](竹久夢二の別名)
[#改ページ]

 江戸ッ児の文明は大川一つ向岸に追いやられて、とうとう本所深川の片隅に押込められてしまった。然らばすなわち、今の東京に江戸趣味は殆んど全く滅ぼしつくされたろうか。いいえさ、まだ捜しさいすりゃァ随分見つけ出すことが出来まさァね。
 さ、そこで、少し思う仔細があるのでそこはかとなく漁って見たら、こんなものが拾い出されたようなわけで、残されたる江戸だなんて、ごたいそうもないこと。実はそんじょそこらのお人の悪い御仁にツイそそのかされて、例のおッちょこちょいから、とんだ囈言《うわごと》までもかくの如しという始末、まァ長え眼でごろうじて下せいと、あなかしこあなかしこ

 空に五月の鯉の翻る朝
[#地から1字上げ]著者
[#改丁]

残されたる江戸
[#改丁]

 江戸ッ児の教育



 十九世紀に遺された女と子供の研究が、二十世紀の今日この頃になって、婦人問題がどうの、児童問題がこうのと、むしょうに解決を急ぎ出し、実物教育なぞいうことが大分やかましくなってきた。西洋文明もこうなって見ると実は少々心細いて! 自慢じゃないが江戸ッ児にはその実物教育てのが三百年も前からちゃァんと決定されている、しかも俚謡になって――

[#ここから1字下げ]
ちん(狆)わん(犬)ねこ(猫)ニャァ(啼き声)ちゅう(鼠)きんぎょ(金魚)に放しがめ(亀)うし(牛)モウ/\(啼き声)こまいぬ(高麗狗)にすゞ(鈴)ガラリン(鈴の鳴る音)かえる(蛙)が三つでみひょこ/\(三匹が動く態)はと(鳩)ポッポ(鳴き声)にたていし(立石)いしどうろ(石灯籠)こぞう(小僧)がこけ(転)ているかい(貝)つく(突)/\ほてい(布袋)のどぶつ(土仏)につんぼえびす(聾恵比寿)がん(雁)がさんば(三羽)にとりい(鳥居)におかめ(阿亀)にはんにゃ(般若)にヒュウドンチャン(笛と太鼓と鉦の名称をその音色で利かしたもの)てんじん(天神)さいぎょう(西行)にこもり(児守)にすもとり(角力取)ドッチョイ(取組んだ態を声喩したもの)わい/\てんのう(天狗の面を被って赤地の扇をひらき短冊びらを散らしなぞする一種の道芸人)五じゅうのとう(五重塔)おんま(馬)がさんびき(三頭)ヒン/\/\(啼き声)
[#ここで字下げ終わり]

 先ずざっとこうである。吾儕《わがせい》はかくも趣味ある変化に富んだ実物教育を、祖父母や乳母から口ずからに授けられて、生れて二歳の舌もまだよくはまわらぬ時から、早くもその趣味性を養われてきたのである。
[#改ページ]

 顔役の裔



 久しい以前のこと、山の手から下町、下町から山の手と、殆んど処隈なく古ぼけた車に朴の木樫の木撫の木を載せて、いずれの太夫が用いすてたのやら、糸も切れ切れの古鼓を鳴らして、下駄の歯入れをなりわいに呼び歩く四十なにがしという爺さんがあった。この爺身にまとう衣服こそ卑しいが、どこやらに一風変った見どころがあって、その頃はたとえ古鼓にせよ、そうしたものを鳴らして下駄の歯入れに歩くものとては一人もなかった。さるを生業《なりわい》は卑しけれ、さる風流を思い立って人知れず独り自ら娯しんでいたのが、いつの頃からかフッツリ見えずなって、大方の噂に上るその行衛を、内々捜していると、麹町の八丁目というに小《ささ》やかな三階づくりが出来て、階下には理髪店が開かれたが、その三階にチラと見える爺さんの相変らずの姿、ようこそあれござんなれとばかり、訪れて見ると、四畳半ほどの一間に朴の木樫の木撫の木を散らばして昔ながらの下駄歯入れ、仔細を訊けば爺さん軽く笑って、「なァにね、実は植木の置場に困ってきやしたので間借りじゃァおっつかず、とうとうこんな棒立小屋を建てやしたのさ!」と至極簡単なもの。段々詮索して見ると、それでも歯入れ渡世で兎も角も家一つを建て、階下を理髪業者に貸し与え、二階にも砲兵工廠に通う夫婦者の職工を棲まわせ、己れ一人は三階の四畳半に独居の不自由を自由とし、尺寸の屋上庭園には十数鉢の盆栽をならべて間がな隙がなその手いれを怠らず、業余にはこれを唯一の慰藉として為めに何ものをもこれに代うるに躊躇せぬ。かれがその妻を去ったのもこの盆栽を疎かにしたからで、蓄財を傾けて己が棲所をしつらえたもこれ故である。
 実際かれはかばかりの自然児である。半宵もし軒をうつ雨の音を聞く時は、蹶然褥を蹴って飛び起き、急ぎ枕頭の蝋燭に火を点《とも》して窓を開け放つなり、火影に盆栽の木々の枝葉の濡色を照らし見て、独り自ら娯しむ。所以を訊ぬれば曰く、「いえね、雨が降ると植木が喜びますんでね、これを見るのが嬉しゅうがすて!」
 かれはまた絵画を好む、往々上野の展覧会場に半日の清閑を楽しんで、その憧憬を恣にすることは必ずしも稀らしくない。しかしかれは文盲だ、眼に一丁字なく、耳に一章句を解せぬが、しかもよく大義名分を弁え、日露の役には区民に率先して五十円を献金し、某の侯爵に隣してその姓名を掲げられたが、実は侯爵よりも数日を先んじて報公の志をつくしたのであったそうな。
 吾が江戸ッ児には如此《かくのごとき》好漢今に幾千かを数え得る。但し、この自然児は長脇差の裔で、祖父も父も江戸に名高い顔役の一人であったとやら……。
 けれどもかれはその後を継ぐに潔からざった。維新後父の死歿を機として遺産のすべてを乾児《こぶん》どもに頒ち、「己はこんな金で気楽に暮らすことなんざァ金輪際嫌えだ。こりゃァ残らず手めえッちょに与《く》れてやらァ。だがよ、後生だから真人間になってくれ、え、真人間に! こんなことをいつまでかしてえちゃァ天道様の罰があたるぜ」――この言の如くかれは鐚《びた》一文親の金には手をつけず、家財までもそのままに飛出して時に或は土かたになり、また時に或は車をも輓いて、やがて今の下駄職に転じ、盆栽を妻とし、絵画を恋人として、彼と此とに戯れ、以て個中の別天地を楽しんでいる。
 聞説《きくならく》、またかれは何人から耳にしたのか蕪村の風流をしたい、そが半生の逸事佳話は一つとして識らざるなく、殊に驚嘆すべきは余財を傾けて蕪村の短冊一葉を己れの有としたことで、かれはこれらのものを購うにも決して価の高下を言わず、他のいうがままに買いとるのである。曰く、「価を値切るなんて、それじゃ自分の楽しみを値切るようなもんでさァ」
[#改ページ]

 三ヶ日と七草



 正月は三ヶ日が江戸ッ児の最も真面目なるべき時だ。かれらは元日の黎明に若水汲んで含嗽《うがい》し、衣を改めて芝浦、愛宕山、九段、上野、待乳山《まつちやま》などに初日の出を拝し、帰来屠蘇雑煮餅を祝うて、更に恵方詣をなす、亀戸天神、深川八幡、日枝神社、湯島天神、神田明神などはその主なるものである。
 かくして更に向島の七福神巡りをするものもあれば、近所の廻礼をすますものもある、けれど廻礼には大方二日以後の日を択び、元日はただ※[#「口+喜」、第3水準1−15−18]笑の間に和楽して終るが多い。
 二日は初湯、初荷、買初、弾初、初夢など江戸ッ児にとっては事多き日である。殊にお宝お宝の絵紙を買って、波乗り船のゆたかな夢を探《たず》ぬるかれらは、遂に憧憬の児たらずとせんや。吾儕はそれが絵の如き美しさと快さとを絶えず夢みて、ここに不断の詩趣を味いつつあるのだ。
 三日には大方の廻礼もおわり、浮世の義理をはなれた仲よし気よしのザックバランな酒盛り、江戸ッ児の特色は一に全く個中に存するを見るべくして、これやがてその本領なのである。もしそれ夜に入っての歌留多《カルタ》遊びに至っては花の色の移ろうを知らざる若き男おんなの罪のない争い、やがてはそれも罪つくるよすがにとはなるべきも、当座はただ慾も苦もない華やかなさざめき、かくてぞ喜びをまつの内はあわただしく過ぎて、七日のまだき、澄みきった旦《あさ》の空気に高々と響き亘る薺打《なずなう》ちの音、「七草なずな、唐土の鶏が、日本の土地に、渡らぬ先に、ストトントン」と彼方からも此方からも聞え初めると、昨日までの門松も飾藁も名残なく取去られて、浮世は元の姿にかえるも淋しい。しかし江戸ッ児には二十日正月までの物日はまだ乏しくないのだ。
[#改ページ]

 揚り凧



 一度は世に捨て果てて顧みられざった名物の凧も、この両三年已来再び新玉の空に勇ましき唸りを聞かせて、吾儕の心を誘《そそ》るは何よりも嬉しい。
 昔時は大の男幾人、木遣りで揚げたというほどの大凧も飛んだと聞くが、子供には手頃でいつの時にも行わるるのは二枚半の絵凧である。
 武蔵野を吹き暴るるからッ風の音、ヒュウヒュウと顔に鳴るとき鯨髭の弓弦もそれに劣らず唸り出しては、江戸ッ児の心自らジッとしておられず、二枚半の糸目を改めて雁木鎌幾つかを結びつけ、履物もそそくさと足に突ッかけて飛出すが例である。実にこの揚り凧の唸りほど江戸ッ児の気勢《きお》いとなるものはない。
 火事と喧嘩はまた江戸の名物だ、かれらは携えゆいた二枚半をとばすや否な、大空を吾がもの顔に振舞っておる他の絵凧に己が凧をからまし、ここに手練の限りを尽くして彼これ凧糸の切りあいを試み、以て互いにその優劣を争う、江戸ッ児の生存競争は早く既に地上のみに行われつつあったのではなかった。打ち仰ぐ紺碧の空に、道心格子、月なみ、三人立ち五人立ちの武者絵凧が、或は勝鬨をあげ、或は闘いを挑む様は、これや陽春第一の尖兵戦、江戸ッ児はかくして三百六十五日その負けじ魂を磨きつつあるのである。向上心をそそりつつあるのである。
 いうを休めよ、三月の下り凧は江戸ッ児の末路を示すものだと、江戸ッ児本来の面目は執着を離れて常に凝滞せざるを誇りとするもの、焉《いずく》んぞ死と滅亡とに兢々たるものであろうぞ。
[#改ページ]

 藪入と閻魔



 藪入と閻魔とは正月と盆とに年二度の物日である。この日奉公人は主家より一日の暇を与えられて、己がじし思う方に遊び暮らすのである。かれらの多くはこの安息日を或は芝居に、或は寄席に、そのほか浅草の六区奥山、上野にも行けば、芝浦にも赴き、どこということなしに遊びまわって、再び主家の閾《しきい》を跨《また》ぐ時には本来空の無一物、財布の底をはたいても鐚《びた》一文出て来ぬのを惜しみも悔みもせず、半歳の勤労に酬いられた所得を、日の出から日の入りまでに綺麗さっぱりにしてしまって、寧ろ宵越しの銭を残さぬ清廉、上方の人に言わしたら「阿呆やなァ」と嗤うかも知れぬが、この心持ち恐らくは江戸ッ児以外に知るものはあるまい。「はァて、己れも長兵衛だ、潔く死なしてくれ」の一
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