言を遺して水野の屋敷へ単身に乗ッ込んだ先祖の兄哥《あにい》を俟つまでもないこと、命と金とを無雑作にしてしかも仁義のおもてに時には意気地なしの嘲りをも甘受するその意義が解ったら、必ずしも江戸ッ児の阿呆ならぬ証しも立つというもの、まァ長い眼で見ていて下されば自ら釈然たるものがあろうと思う。
 それから地獄の釜の蓋のあく日に、お閻魔様への御機嫌伺い、これとて強ち冥土の沙汰も金次第だからとて、死なぬ先から後生をお願い申すわけでも何でもなく、そんな卑怯な気の弱い手合いは口幅ったいことを言うのじゃないが、恐らく正真正銘の江戸ッ児には一人もないはず。あったら其奴はいかさまだと思召して頂きたい――
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 節分と鷽替



 年越しの夕べ、家々に年男の勇ましい声して「福はァ内、福はァ内――、鬼はァ外、鬼はァ外――」と豆撒くが聞え出すと、福茶の煮える香ばしい匂い、通りすがりの人をも襲うて、自ら嗅覚を誘る心地、どこやらに長閑《のどか》な趣はあるものだ。
 その夜の追儺《ついな》に、太宰府天満宮の神事を移して、亀戸天神に催さるる赤鬼青鬼退治の古式、江戸ッ児にはそんな七面倒臭い所作なぞ、見るもじれったくて辛抱出来まいと思の外、何がさて洒落と典雅とを欣ぶその趣味性には、ザックバランなことばかりに限らず、かかる式楽も殊の外に興がって、今に参観の者尠くない。
 又この天満宮に行わるる鷽替《うそかえ》の神事も、筑紫のを移したのだが、これとて昔に変らぬ有様。ただ変ったのは未明に参詣して行逢う人同士携えたを替るが、風俗上の取締りから禁じられて、幾分興味を淡くしたまで、元来が受けて来る鷽の疎刻《あらきざみ》が如何にも古雅で、近頃は前年のを持ちゆいて替えて来る向も尠くなった。要するに信心気は減ったが、趣味はなお存しておるのだ。
 鷽は国音嘘に通ず、故に昔は去年の鷽を返して今年の鷽を新たに受けて来たものだが、今は前年のまでも返さぬという、江戸ッ児は嘘が身上で、それがなかったら上ったりだろうなぞと、口さがない悪たれ言も聞かぬではないが、そんな人にはてんでお話が出来ず、俳諧の風雅を愛し、その情味を悟るほどの人ならば、そんな野暮は仰有《おっしゃ》るまいと実は気にする者がないということだ。はッくしょい! ハテ誰かまた陰口を利いておるそうな、いいわ、まず打遣《うっちゃ》っておけ……。
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 初卯と初午



 亀戸天神からはツイお隣りの、柳島の妙見には初卯詣での老若男女、今も昔に変らぬは、白蛇の出るのが嘘じゃと思わぬからか。橋本の板前漸く老いて、客足の寂れたのも無理ならぬことで、近頃の亀戸芸者に深川趣味を解するもの一人もなく、時節柄の流行唄にお座を濁して、客もこれで我慢するというよりは結局その方が御意に召す始末。イヤ変りましたなと妙に感服仕って後を言わねば褒めたのやら腐したのやら頓と判らず、とはいえ詮索せぬが華だとそのままにして、ただここへおこしなら繭玉の珍なのと、麦稈《むぎわら》細工の無格好な蛇が赤い舌を出しているのを忘れずに召せとお侑《すす》めしておく。
 初午に至っては東京市中行くとして地口行灯に祭り提灯、赤い鳥居の奥から太鼓の音の聞えぬはなく、伊勢屋と稲荷と犬の糞とは大江戸以来の名物だけに今もイヤ多いことおおいこと。
 その多い稲荷社の初午、朝からの勇ましい太鼓の音に、界隈の子供が一日を楽しく嬉しく暮らして、絵行灯に灯の点《とも》る頃になると、これらの小江戸ッ児は五人、七人隊をなして、家々の門を祭り銭をつなぎにまわる――
「お稲荷様のお初穂、おあげの段から墜こって……」と膏薬代をねだるように口ではいうが、実はさらさらそんな風儀の悪いのではない、供物と蝋燭の代につないだ銭が、幾分子供達の舌鼓の料ともなりはするにしても、そこらはさっぱりしたもの、見くびられては真《さ》ぞ心苦しかろうと岡見ながらも弁えておきたい。
 ――稲荷祭りの趣向に凝ったのは、料理屋とか芝居道の人々のそれだ。今も浜町の岡田や築地の音羽屋、根岸の伊井が住居なぞでは随分念の入った催しをする。
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 梅と桜



 何事にも走りを好む江戸ッ児の気性では、花咲かば告げんといいし使いの者を待つほどの悠長はなく、雪の降る中から亀戸の江東梅のとさわぎまわって蕾一つ綻びたのを見つけてきても、それで寒い怠《だる》いも言わず、鬼の首を取りもしたかのように独り北叟笑《ほくそえ》んで、探梅の清興を恣にする。もしそれ南枝の梢に短冊の昔を愛する振舞いに至っては、必ずしも歌句の拙きを嗤うを要せぬ、倶利迦羅紋紋の兄哥《あにい》にもこの風流あるは寧ろ頼もしからずとせんや。
 遮莫《さもあらばあれ》、這個《しゃこ》の風流も梅の清楚なるを愛すればのこと、桜の麗にして妍《けん》なるに至ては人これに酔狂すれどもまた即興の句にも及ばず、上野の彼岸桜に始まって、やがて心も向島に幾日の賑いを見せ、さて小金井、飛鳥山、荒川堤と行楽に処は尠からぬも、雨風多き世に明日ありと油断は出来ず、今日を一年の晴れといろいろにおもいを凝らし、花を見にゆくのか人に見られに行くのかを疑うばかりであった桜狩りの趣向も、追々に窮屈になりこして、しかも無態な広告の看板や行列に妨げられ、鬼の念仏お半長右衛門の花見姿は見ることもならず、相も変らぬは団子の横喰い茹玉子、それすら懐で銭を読んでから買うようになっては情ないことこの上なし、世は已に醒めたりとすましていられる人は兎も角、こちとらには池塘春草《ちとうしゅんそう》の夢、梧の葉の秋風にちるを聞くまでは寧ろ醒めずにいつまでもいつまでも酔っていて、算盤《そろばん》ずくで遊山する了見にはなりたくないもの、江戸ッ児の憧憬はここらにこそ存《あ》っておるはずであるのに……。
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 弥助と甘い物



 江戸ッ児は上戸ばかりと相場のきまったものでもなければ、下戸にも相応の贅はある。されば一[#(ト)]わたり上戸と下戸の口にあう鮨と餡ころの月旦を試みように、弥助は両国の与兵衛、代地の安宅の松、葭町《よしちょう》の毛抜鮨とか、京橋の奴や緑鮨、数え立てたら芝にも神田にも名物は五ヶ所七ヶ処では利かないが、何といっても魚河岸のうの丸にとどめを差す。
 凡そ鮪の土手を分厚の短冊におろして、伊豆のツンとくるやつを孕《はら》ませ、握りたてのまだ手の温味《ぬくみ》が失せぬほどのを口にする旨さは、天下これに上こす類はないのだ。
 そこへゆくと与兵衛鮨は甘味が勝ち過ぎ、松ずしは他の料理に心をおくようになって、頓と元ほどの味なく、毛抜鮨も笹の葉と共に大分お粗末になって、その他のはお談《はなし》にならず、ただ名のみを今も昔のままに看板だけで通している為体《ていたらく》、して見ると食道楽の数も大分減ったのが判るようだ。
 甘いものは餅菓子に指を屈して汁粉、餡ころにも及ぶべく、栄太楼の甘納豆、藤村の羊羹、紅谷の鹿の子、岡野の饅頭と一々は数え切れず、それでもこれらの店には今も家伝の名物だけは味を守って、老舗の估券《こけん》をおとすまいとしているが、梅園の汁粉に砂糖の味のむきだしになったを驚き、言問団子に小豆の裏漉しの不充分を嘆《かこ》つようになっては、駒形の桃太郎団子、外神田の太々餅も元の味いはなく、虎屋のドラ焼きも再び世には出たが、火加減にまれ附味の按配にまれ、ガラリ変って名代というばかり。塩瀬、青柳、新杵の如きも徒に新菓のみを工夫して、時人の口に諂《おもね》り、一般が広告で売ろうなどとはさても悪い了見を出したものだ。
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 渡し船



「おッこちが出来てわたしが嫌になり」さて霊岸島から深川への永代橋が架って以来名物の渡し一つ隅田川にその数を減じたが、代りに新しく月島の渡し、かちどきの渡しなぞふえて、佃にも同じ渡しの行きかうを見るようになった。
 しかし、隅田の渡しで古いのは浜町三丁目から向河岸への安宅の渡し、矢の倉と一ノ橋際間の千歳の渡し、須賀町から横網への御蔵の渡し、待乳山《まつちやま》下から向島への竹屋の渡し、橋場、寺島村間の白髭の渡し、橋場、隅田村間の水神の渡し、南千住から綾瀬への汐入りの渡しなぞで、その最も古い歴史を有すのは竹屋の渡しだ。
 この渡し、元は待乳の渡しといったものなのを、いつの頃からか竹屋という船宿の屋号がその通り名となり、百五十年来の名所に二つの呼び名を冠するに至ったのだ。
 花の向島に人の出盛る頃は更にも言わず、春夏秋冬四時客の絶えぬのはこの竹屋の渡しで、花の眺めもここからが一入《ひとしお》だ。
 されど趣あるは白髭の渡しもこれに譲らず、河鹿など聞こうとには汐入りの渡し最もよかろうと思う。
 千住から荒川に入っては豊島のわたしを彼方へ王子に赴くもまた趣あり。船遊山とはことかわるが、趣味の江戸ッ児にはこの渡し船の乗りあいにも興がりて、永代から千住までの六大橋に近い所でも、態々まわり路して渡し船に志すが尠くない。
 然ればこそ隅田川上下の流れを横切って十四の箇所を徂徠している数々の渡し船も、それぞれに乗る人の絶えないので船夫の腮《あご》も干あがらぬのである。
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 汐干狩



 三月桃の節句に入っての大潮を見て、大伝馬、小伝馬、荷たりも出れば屋根船も出で、江戸ッ児の汐干狩は賑やかなこと賑やかなことこの上なく、紅白の幔幕旗幟のたぐいをまでたてて、船では三味線幾挺かの連れ弾きにザザンザ騒ぎ、微醺《びくん》の顔にほんのりと桜色を見せて、若い女の思い切り高々に掲げた裳から、白い脛《すね》惜気もなくあらわにして、羞かしいなぞ怯れてはいず、江戸ッ児は女でもさっぱりしたもの、時に或はむしがれいなぞ踏まえて、驚いて飛びあがりはしても、半ばはそれを興がりてのこと、強ちに獲物の多きを欲せずして、気晴らしをこれ専らとする。
 然れば夕べに七つ屋の格子を潜って、都々逸よりも巧みな才覚しすまして旦は町内のつきあいに我も漏れず、一日を他愛もなく興じ暮らして嚢中の空しきを悔いざる雅懐は、蓋し江戸ッ児の独占するところか。
 上げ汐の真近時になると、いずれの船からも陣鉦《じんがね》、法螺《ほら》の貝などを鳴らし立てて、互いにその友伴れをあつめ、帰りは櫓拍子に合わせて三味線の連れ弾きも気勢いよく、歌いつ踊りつの大陽気、相伴の船夫までが一杯機嫌に浮れ出して存外馬鹿にもならぬ咽喉を聞かすなぞ、どこまでも面白く出来ている。お土産は小雑魚よりも浅蜊《あさり》、蛤の類、手に手に破れ網の古糸をすき直して拵えたらしい提げものに一ぱいを重そうにして、これ留守居や懇意へのすそ頒け、自分は喰べずとも綺麗さっぱり与《や》ってしまった方が結句気安いようで、疲れて寝る臥床の中に、その夜の夢は一入《ひとしお》平和である。
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 山吹の名所



 歌書には井出の玉川をその随一とするよう記されてはあるが、さて今はさる名所も探ぬるに影さえ残らず、あわれ名所の花一つを旧蹟もなくして果てようとしたを向島なる百花園の主人、故事をたずね、旧記をあさって、此処彼処からあつめきた山吹幾株、園のよき地を択りに択って、移し植えたるが一両年この方大分に古びもつき、新しく江戸の名所をここに悌《おもかげ》だけでも留め得た。七重八重花羞かしき乙女の風流をも解し得ざった昔の御大将はともあれ、今の都人士にその雅懐を同じゅうしてこの花をここに訪ぬるは知らず幾人であろう。宵越しの銭を使わぬ江戸ッ児が黄金色の花を愛するなど柄にないことと罵りたもう前に、一度は行きて賞したまえや。
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 節句



 五節句の中で、今も行わるるは桃の節句、菖蒲の節句である。
 桃の節句は女の子の祝うものだけに、煎米、煎豆、菱餅。白酒の酔いにほんのりと色ざした、眼元、口元、豊《ふく》よかな頬にまで花の妍《あざ》やかさを見せたる、やがての春も偲ばるるものである。
 さて雛壇には内裏雛、五人囃、官女のたぐい賑やかに、人形天皇の御宇の盛りいともめでたく、女は生れてそもそもの弥生からかくして家を形づくること学ぶなるべし。
 菖蒲の節句は男の節句、矢車の
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