うれば、冬の情景ここにつくされて、限りなき淋しさを味うことが出来る。
されば夜なべの気も惓んじた頃、戸外に一度この声を聞く時は、狐窓から呼び止めて熱いのをと幾つか誂える。心得て枝炭新たにさしくべ、パタパタと急しく渋団扇ものせば、忽ちにパチパチと勇ましい音して、お誂えの数は揃う。
凡そ鍋焼饂飩は吹きふき喰べるような熱いのを最も賞美する。故に立ちのぼる湯の気の中に顔をうずめて箸を運ぶ時、三ッ葉あり蒲鉾あり、化粧麩、花がつおなど、いろいろの種物にまじわれば、丸三の安饂飩も存外に旨く味われて、食通も時に舌鼓を打つぞおかしい。
稲荷鮨は元来がおこんこ様好み。麻の実、萱の実、青昆布などの扱《あし》らいに、ツイ騙されて南京米をも知らずに頬張るが、以前はそんな吝《けち》なのはなかったものだ、憚《はばか》んながら今でも千住の鈴木まで買いにゆくなら、ころもにしてある油揚も別製なれば、種物も米も吟味に吟味してある。殊に掻きたての辛子さえ添えてくれるには誰しもここに限ると御意遊ばすも無理ならぬこと。態々稲荷鮨くらいにと、電車すら通う便利な世になっても、まだ買いにも喰いにも行かないという人々には、のっけからお話も何も出来ないことだ。ここいらの心持ちも、実ァ口で言うだけじゃァ解らないが、早く言やァ江戸ッ児の気分なのだ。
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からッ風
武蔵野は筑波|颪《おろし》のからッ風、秋の暮から冬三月を吹いてふいて吹きとおして、なお且つ花さく日にも吹きやまず、とかくして三春の行楽をも蹂躙《ふみにじ》ろうとすること必ずしも稀らしくはない。
大江戸以来の名物も数多い中に、このからッ風は今に毛ほども相変らずで、しかもこの風時々に悪戯をなすこと限りなく、通りすがりの若い女の裳を弄び、おこそ頭巾の後れ髪を苛むなぞはまだしものこと、ややともすればジャアンと打ッつかったが最後、大江戸を唯一呑みと赤い舌を吐いて、ペロリペロリそこら中を嘗めまわす。江戸の花だと気勢う連中も、災の我身に及ぶ時は敢えてそうした呑気ばかり言ってはおれず、それというより死力を尽してこれと闘わねばならないので、夜々のからッ風に火の元を用心し、向島は秋葉神社の護符を拝受して台所の神棚に荒神様と同居させるなぞ、明暦以来は一層懲りに懲りているので、用意周到行きわたらざる隈もない。
「ああ又いやに吹きやァがるじゃねえか。今夜あたり、ジャンと来なきゃァいいが」なぞと言う晩には妙に神経も昂ってきて、器物の音にも耳を聳てる。
されば向島の秋葉様は十月の十七、十八という、そろそろ人の懼気《おじけ》づく頃に例年の大祭を執行し、火防の御幣を広く参詣の人々に頒つこと、考えれば抜け目のないことである。
しかしながら半鐘の音という奴、いつ聞いても余り気味のいいものでなく、正月の消防出初式に打つのでも、それと知りつつ妙に気が噪いでくる。江戸ッ児の好くのはただこの興奮一つからで、火事場の弥次馬も全く噪ッ気からとはさもそうずさもあるべきである。
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納豆と朝湯
霜のあしたを黎明から呼び歩いて、「納豆ゥ納豆、味噌豆やァ味噌豆、納豆なっとう納豆ッ」と、都の大路小路にその声を聞く時、江戸ッ児には如何なことにもそを炊きたての飯にと思立ってはそのままにやり過ごせず、「オウ、一つくんねえ」と藁づとから取出すやつを、小皿に盛らして掻きたての辛子、「先ず有難え」と漸く安心して寝衣のままに咬《くわ》え楊枝で朝風呂に出かけ、番頭を促して湯槽の板幾枚をめくらせ、ピリリと来るのをジッと我慢して、「番ッさん、ぬるいぜ!」、なぞは何処までもよく出来ている。
それよりして熊さん八公の常連ここに落合えば、ゆうべの火事の話、もてたとかもてなかったとか、大抵問題はいつもきまったものだ。
次いで幾許もなく寄席仕込みの都々逸、端唄、鏡板に響いて平生よりは存外に聞きよいのを得意にして、いよいよ唸りも高くなると、番頭漸く倦《うん》ざりして熱い奴を少しばかり、湯の口にいた二、三人が一時に声を納めて言いあわしたように流し場へ飛出すと、また入れ代って二、三人、これに対しても番頭の奥の手はきまったものだ。
とかくして、浴後の褌一つに、冬をも暑がってホッホッという太息、見れば全身|宛《さなが》ら茹蛸のようだ。
「どうでえ、よく茹りやがッたなァ」
「てめえだってそうじゃねえか。これで肥ってりゃァ差向き金時の火事見めえて柄だけどなァ――」
「金時なら強そうでいいや」
「へん、その体で金時けえ――」
肚の綺麗なわりに口はきたなく、逢うとから別れるまで悪口雑言の斬合い。そんなこんなで存外時間をつぶし、夏ならばもうかれこれ納豆売りが出なおして金時を売りにくる時分だ。
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歳の市
深川八幡に始まって、浅草観音、神田明神
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