初卯と初午
亀戸天神からはツイお隣りの、柳島の妙見には初卯詣での老若男女、今も昔に変らぬは、白蛇の出るのが嘘じゃと思わぬからか。橋本の板前漸く老いて、客足の寂れたのも無理ならぬことで、近頃の亀戸芸者に深川趣味を解するもの一人もなく、時節柄の流行唄にお座を濁して、客もこれで我慢するというよりは結局その方が御意に召す始末。イヤ変りましたなと妙に感服仕って後を言わねば褒めたのやら腐したのやら頓と判らず、とはいえ詮索せぬが華だとそのままにして、ただここへおこしなら繭玉の珍なのと、麦稈《むぎわら》細工の無格好な蛇が赤い舌を出しているのを忘れずに召せとお侑《すす》めしておく。
初午に至っては東京市中行くとして地口行灯に祭り提灯、赤い鳥居の奥から太鼓の音の聞えぬはなく、伊勢屋と稲荷と犬の糞とは大江戸以来の名物だけに今もイヤ多いことおおいこと。
その多い稲荷社の初午、朝からの勇ましい太鼓の音に、界隈の子供が一日を楽しく嬉しく暮らして、絵行灯に灯の点《とも》る頃になると、これらの小江戸ッ児は五人、七人隊をなして、家々の門を祭り銭をつなぎにまわる――
「お稲荷様のお初穂、おあげの段から墜こって……」と膏薬代をねだるように口ではいうが、実はさらさらそんな風儀の悪いのではない、供物と蝋燭の代につないだ銭が、幾分子供達の舌鼓の料ともなりはするにしても、そこらはさっぱりしたもの、見くびられては真《さ》ぞ心苦しかろうと岡見ながらも弁えておきたい。
――稲荷祭りの趣向に凝ったのは、料理屋とか芝居道の人々のそれだ。今も浜町の岡田や築地の音羽屋、根岸の伊井が住居なぞでは随分念の入った催しをする。
[#改ページ]
梅と桜
何事にも走りを好む江戸ッ児の気性では、花咲かば告げんといいし使いの者を待つほどの悠長はなく、雪の降る中から亀戸の江東梅のとさわぎまわって蕾一つ綻びたのを見つけてきても、それで寒い怠《だる》いも言わず、鬼の首を取りもしたかのように独り北叟笑《ほくそえ》んで、探梅の清興を恣にする。もしそれ南枝の梢に短冊の昔を愛する振舞いに至っては、必ずしも歌句の拙きを嗤うを要せぬ、倶利迦羅紋紋の兄哥《あにい》にもこの風流あるは寧ろ頼もしからずとせんや。
遮莫《さもあらばあれ》、這個《しゃこ》の風流も梅の清楚なるを愛すればのこと、桜の麗にして妍《けん》なるに至ては人これに酔狂すれどもまた即興の句にも及ばず、上野の彼岸桜に始まって、やがて心も向島に幾日の賑いを見せ、さて小金井、飛鳥山、荒川堤と行楽に処は尠からぬも、雨風多き世に明日ありと油断は出来ず、今日を一年の晴れといろいろにおもいを凝らし、花を見にゆくのか人に見られに行くのかを疑うばかりであった桜狩りの趣向も、追々に窮屈になりこして、しかも無態な広告の看板や行列に妨げられ、鬼の念仏お半長右衛門の花見姿は見ることもならず、相も変らぬは団子の横喰い茹玉子、それすら懐で銭を読んでから買うようになっては情ないことこの上なし、世は已に醒めたりとすましていられる人は兎も角、こちとらには池塘春草《ちとうしゅんそう》の夢、梧の葉の秋風にちるを聞くまでは寧ろ醒めずにいつまでもいつまでも酔っていて、算盤《そろばん》ずくで遊山する了見にはなりたくないもの、江戸ッ児の憧憬はここらにこそ存《あ》っておるはずであるのに……。
[#改ページ]
弥助と甘い物
江戸ッ児は上戸ばかりと相場のきまったものでもなければ、下戸にも相応の贅はある。されば一[#(ト)]わたり上戸と下戸の口にあう鮨と餡ころの月旦を試みように、弥助は両国の与兵衛、代地の安宅の松、葭町《よしちょう》の毛抜鮨とか、京橋の奴や緑鮨、数え立てたら芝にも神田にも名物は五ヶ所七ヶ処では利かないが、何といっても魚河岸のうの丸にとどめを差す。
凡そ鮪の土手を分厚の短冊におろして、伊豆のツンとくるやつを孕《はら》ませ、握りたてのまだ手の温味《ぬくみ》が失せぬほどのを口にする旨さは、天下これに上こす類はないのだ。
そこへゆくと与兵衛鮨は甘味が勝ち過ぎ、松ずしは他の料理に心をおくようになって、頓と元ほどの味なく、毛抜鮨も笹の葉と共に大分お粗末になって、その他のはお談《はなし》にならず、ただ名のみを今も昔のままに看板だけで通している為体《ていたらく》、して見ると食道楽の数も大分減ったのが判るようだ。
甘いものは餅菓子に指を屈して汁粉、餡ころにも及ぶべく、栄太楼の甘納豆、藤村の羊羹、紅谷の鹿の子、岡野の饅頭と一々は数え切れず、それでもこれらの店には今も家伝の名物だけは味を守って、老舗の估券《こけん》をおとすまいとしているが、梅園の汁粉に砂糖の味のむきだしになったを驚き、言問団子に小豆の裏漉しの不充分を嘆《かこ》つようになっては、駒形の桃太郎団子、外神田の太々餅も
前へ
次へ
全23ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
柴田 流星 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング