はまだ乏しくないのだ。
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揚り凧
一度は世に捨て果てて顧みられざった名物の凧も、この両三年已来再び新玉の空に勇ましき唸りを聞かせて、吾儕の心を誘《そそ》るは何よりも嬉しい。
昔時は大の男幾人、木遣りで揚げたというほどの大凧も飛んだと聞くが、子供には手頃でいつの時にも行わるるのは二枚半の絵凧である。
武蔵野を吹き暴るるからッ風の音、ヒュウヒュウと顔に鳴るとき鯨髭の弓弦もそれに劣らず唸り出しては、江戸ッ児の心自らジッとしておられず、二枚半の糸目を改めて雁木鎌幾つかを結びつけ、履物もそそくさと足に突ッかけて飛出すが例である。実にこの揚り凧の唸りほど江戸ッ児の気勢《きお》いとなるものはない。
火事と喧嘩はまた江戸の名物だ、かれらは携えゆいた二枚半をとばすや否な、大空を吾がもの顔に振舞っておる他の絵凧に己が凧をからまし、ここに手練の限りを尽くして彼これ凧糸の切りあいを試み、以て互いにその優劣を争う、江戸ッ児の生存競争は早く既に地上のみに行われつつあったのではなかった。打ち仰ぐ紺碧の空に、道心格子、月なみ、三人立ち五人立ちの武者絵凧が、或は勝鬨をあげ、或は闘いを挑む様は、これや陽春第一の尖兵戦、江戸ッ児はかくして三百六十五日その負けじ魂を磨きつつあるのである。向上心をそそりつつあるのである。
いうを休めよ、三月の下り凧は江戸ッ児の末路を示すものだと、江戸ッ児本来の面目は執着を離れて常に凝滞せざるを誇りとするもの、焉《いずく》んぞ死と滅亡とに兢々たるものであろうぞ。
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藪入と閻魔
藪入と閻魔とは正月と盆とに年二度の物日である。この日奉公人は主家より一日の暇を与えられて、己がじし思う方に遊び暮らすのである。かれらの多くはこの安息日を或は芝居に、或は寄席に、そのほか浅草の六区奥山、上野にも行けば、芝浦にも赴き、どこということなしに遊びまわって、再び主家の閾《しきい》を跨《また》ぐ時には本来空の無一物、財布の底をはたいても鐚《びた》一文出て来ぬのを惜しみも悔みもせず、半歳の勤労に酬いられた所得を、日の出から日の入りまでに綺麗さっぱりにしてしまって、寧ろ宵越しの銭を残さぬ清廉、上方の人に言わしたら「阿呆やなァ」と嗤うかも知れぬが、この心持ち恐らくは江戸ッ児以外に知るものはあるまい。「はァて、己れも長兵衛だ、潔く死なしてくれ」の一言を遺して水野の屋敷へ単身に乗ッ込んだ先祖の兄哥《あにい》を俟つまでもないこと、命と金とを無雑作にしてしかも仁義のおもてに時には意気地なしの嘲りをも甘受するその意義が解ったら、必ずしも江戸ッ児の阿呆ならぬ証しも立つというもの、まァ長い眼で見ていて下されば自ら釈然たるものがあろうと思う。
それから地獄の釜の蓋のあく日に、お閻魔様への御機嫌伺い、これとて強ち冥土の沙汰も金次第だからとて、死なぬ先から後生をお願い申すわけでも何でもなく、そんな卑怯な気の弱い手合いは口幅ったいことを言うのじゃないが、恐らく正真正銘の江戸ッ児には一人もないはず。あったら其奴はいかさまだと思召して頂きたい――
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節分と鷽替
年越しの夕べ、家々に年男の勇ましい声して「福はァ内、福はァ内――、鬼はァ外、鬼はァ外――」と豆撒くが聞え出すと、福茶の煮える香ばしい匂い、通りすがりの人をも襲うて、自ら嗅覚を誘る心地、どこやらに長閑《のどか》な趣はあるものだ。
その夜の追儺《ついな》に、太宰府天満宮の神事を移して、亀戸天神に催さるる赤鬼青鬼退治の古式、江戸ッ児にはそんな七面倒臭い所作なぞ、見るもじれったくて辛抱出来まいと思の外、何がさて洒落と典雅とを欣ぶその趣味性には、ザックバランなことばかりに限らず、かかる式楽も殊の外に興がって、今に参観の者尠くない。
又この天満宮に行わるる鷽替《うそかえ》の神事も、筑紫のを移したのだが、これとて昔に変らぬ有様。ただ変ったのは未明に参詣して行逢う人同士携えたを替るが、風俗上の取締りから禁じられて、幾分興味を淡くしたまで、元来が受けて来る鷽の疎刻《あらきざみ》が如何にも古雅で、近頃は前年のを持ちゆいて替えて来る向も尠くなった。要するに信心気は減ったが、趣味はなお存しておるのだ。
鷽は国音嘘に通ず、故に昔は去年の鷽を返して今年の鷽を新たに受けて来たものだが、今は前年のまでも返さぬという、江戸ッ児は嘘が身上で、それがなかったら上ったりだろうなぞと、口さがない悪たれ言も聞かぬではないが、そんな人にはてんでお話が出来ず、俳諧の風雅を愛し、その情味を悟るほどの人ならば、そんな野暮は仰有《おっしゃ》るまいと実は気にする者がないということだ。はッくしょい! ハテ誰かまた陰口を利いておるそうな、いいわ、まず打遣《うっちゃ》っておけ……。
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