分でもなくなった。
昔男ありけりと碑にも刻まれた東の名花、ここに空しく心なき人々に弄ばれて、あわれにもまた情ない今の有様、如何にもしてそが復活を図りたいものだとは物のわかった昔のお兄哥さんが皺だらけの顔を撫でての思案である。
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稗蒔
尺寸の天地をも愛する江戸ッ児は常にその景情を象って、自然の美に接せねばやまぬ。
麦の穂漸く色づいて、田園の風致いよいよ濃《こま》やかな頃、今戸焼の土鉢に蒔きつけた殻の青々と芽生えて、宛《さなが》ら早苗などの延びたらんようなるに、苧殻《おがら》でこしらえた橋、案山子人形、魚釣りなんどを按排し、橋の下なる流れには金魚、緋目高、子鯉といったような類を放ちて、初夏の午前を担いにのせて売り歩く、なかなかに愛でたきものだ。
「稗蒔や、ひえまァき――」
人もしこの声を朝の巷に聞く時は、貴賤老若にかかわらず、門に出てその値ぶみをする。大小精粗によって五銭より十銭、二十銭、三十銭、五十銭、それ以上なは先ず注文でなくば大方は持合わさず、僅に半円以下の散財で恣に野趣を愛する。さても気やすいことではないか。
要するに江戸ッ児の趣味は多角的である。その都会美にも一致すれば、田園美にも合体する。かれらは炎塵の巷に起臥するをも苦とせねば、静閑の境に悠遊するにも億劫でない。すなわちかれらは忙裏の閑をかかる小自然の間にもとめて、洗心の快をやる。されば「稗蒔や、ひえまァき――」の声耳に達するや、かれらの憧憬はその愛らしき別乾坤に馳せて、或は数銭、或は数十銭の所得を減ずるに吝《やぶさ》かならぬのである。
人もし理髪のために床屋の店に赴かんか、そこに幾個の盆栽あり、稗蒔あり、そしてまた箱庭なんどの飾らるるを見る。これ必ずしも理髪師の風流のみではないが、待合わす人の眼を楽しましむるに利して兼ねてかれらの俳趣味をも養うものであるのだ。
さるはまた床屋のみでない、湯屋も然り、氷店も然り、而して小料理店といわず、屋台店の飲食店といわず、近頃は欧風のショオウィンドオにまでもこれらの幾つかを按排して、装飾の一つに応用するなど、捌け口はいよいよ広くなりゆく。
都会の膨脹が尺地をも余さず、庭というもの店舗を有する人々には次第に失われ行くにつれて、かれらの自然美に憧るる心は遂にここに赴いて、その幾鉢を領することに満足する以上、残されたる江戸趣味の中にも、
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