かかる類いは永遠に滅びざるものの一つとや言おうか。
ああ自然は遂に滅びぬ。人は物質の慾に足っても、それで始終の満足はされぬ。かくてかれらは自然に憧れ、かくてかれらは尺寸の別天地を占むるに算盤珠を弾かぬのだ。
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苗売り
「朝ァ顔の苗夕顔の苗。隠元、唐茄子、へちィまの苗。茄子の苗ェ黄瓜の苗。藤ィ豆、冬瓜、ささァぎの苗」
静かな朝の巷に、その美しい咽喉を利かせて、節面白く商いあるく苗売りの生業《なりわい》は、岡目にばかり風流なものではない。
某のお店の若旦那、清元に自慢の咽喉を人に誇っていたまではよかったが、一[#(ト)]朝この苗売りの声を聞いて心ぞその身もなって見たく、私かに苗売りの後に尾して、その家に訪ねゆき、事をわっての頼みに、初めのほどは止めても見たが、たっての所望致しかたなく、翌朝はこの若旦那のお供して、「朝ァ顔の苗――ささぎの苗――」とりどりに呼び歩いたが、若旦那荷だけは半町も担げず、すぐに代って貰った。が自慢の咽喉だけはどうでもきかしたく、とうとう一日を互いに呼び歩いて、それが病みつき、一端はそうした生業に口すぎするまでの道楽におちて、父親の勘当容易にゆりなかったを、番頭、手代、親戚、縁者の詫び言で、漸《ようよ》う元の若旦那に立ちかえる。しかしそれでも初夏の朝々にこの声を耳にしては、心自ら浮き浮きして、凝乎《じっ》としていられぬとは馬鹿にしたもうな、江戸ッ児にはありがちのことだ。
但し、この苗売りというもの、商いの苗よりは咽喉が肝腎で、中には随分この若旦那のようながあり、売上の高も節の上手が一番だとは、どこまでも面白き生業の一つである。
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木やり唄
揃いの法被《はっぴ》に揃いの手拭、向鉢巻に気勢いを見せて、鳶頭、大工二十人、三十人、互いに自慢の咽喉を今日ぞとばかり、音頭取りの一[#(ト)]くさりを唄い終るかおわらぬに一斉の高調子、「めでためでたの若松様よ、枝も栄える、葉も繁る――」と唄い初め唄いおさむる建前のあした、都の空にこの唄声の漸く拡ごり行けば、万丈の紅塵一時に鎮まりかえって、払いたまえともうす棟梁の上なる神幣、そよ風に翻って千代の栄えを徴すとかや。
実に木やり唄は江戸趣味のこれも一つよ。祭りの巷に男姿の芸者数多、揃い衣の片肌脱ぎになって、この唄につれ獅子頭曳くも趣は同じく、折柄の気勢いにはま
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