ったのみで、四下《あたり》はまた闃《ひッそ》となって了った。ただ相変らず蟋蟀《きりぎりす》が鳴しきって真円《まんまる》な月が悲しげに人を照すのみ。
 若《も》し其処のが負傷者《ておい》なら、この叫声《わめきごえ》を聴いてよもや気の付かぬ事はあるまい。してみれば、これは死骸だ。味方のかしら、敵のかしら。ええ、馬鹿くさい! そんな事は如何《どう》でも好いではないか? と、また腫※[#「目+匡」、第3水準1−88−81]《はれまぶた》を夢に閉じられて了った。

 先刻《さっき》から覚めてはいるけれど、尚お眼を瞑《ねむ》ったままで臥《ね》ているのは、閉じた※[#「目+匡」、第3水準1−88−81]越《まぶたごし》にも日光《ひのめ》が見透《みすか》されて、開《あ》けば必ず眼を射られるを厭《いと》うからであるが、しかし考えてみれば、斯う寂然《じっ》としていた方が勝《まし》であろう。昨日《きのう》……たしか昨日《きのう》と思うが、傷《て》を負ってから最《も》う一昼夜、こうして二昼夜三昼夜と経《た》つ内には死ぬ。何の業《わざ》くれ、死は一ツだ。寧《いっ》そ寂然《じっ》としていた方が好《い》い。身動《みうごき》がならぬなら、せんでも好《い》い。序《ついで》に頭の機能《はたらき》も止《と》めて欲しいが、こればかりは如何《どう》する事も出来ず、千々《ちぢ》に思乱れ種々《さまざま》に思佗《おもいわび》て頭に些《いささか》の隙も無いけれど、よしこれとても些《ちッ》との間《ま》の辛抱。頓《やが》て浮世の隙《ひま》が明いて、筐《かたみ》に遺る新聞の数行《すぎょう》に、我軍死傷少なく、負傷者何名、志願兵イワーノフ戦死。いや、名前も出まいて。ただ一名戦死とばかりか。兵一名! 嗟矣《ああ》彼《あ》の犬のようなものだな。
 在りし昔が顕然《ありあり》と目前に浮ぶ。これはズッと昔の事、尤もな、昔の事と思われるのは是ばかりでない、おれが一生の事、足を撃れて此処に倒れる迄の事は何も彼《か》もズッと昔の事のように思われるのだが……或日町を通ると、人だかりがある。思わずも足を駐《とど》めて視ると、何か哀れな悲鳴を揚げている血塗《ちみどろ》の白い物を皆|佇立《たちどまっ》てまじりまじり視ている光景《ようす》。何かと思えば、それは可愛《かわい》らしい小犬で、鉄道馬車に敷かれて、今の俺の身で死にかかっているのだ。すると、何処からか番人が出て来て、見物を押分け、犬の衿上《えりがみ》をむずと掴《つか》んで何処へか持って去《い》く、そこで見物もちりぢり。
 誰かおれを持って去《い》って呉れる者があろうか? いや、此儘で死ねという事であろう。が、しかし考えてみれば、人生は面白いもの、あの犬の不幸に遭《あ》った日は俺には即ち幸福な日で、歩くも何か酔心地、また然うあるべき理由《わけ》があった。ええ、憶えば辛い。憶うまい憶うまい。むかしの幸福。今の苦痛……苦痛は兎角免れ得ぬにしろ、懐旧の念には責められたくない。昔を憶出《おもいだ》せば自然と今の我身に引比べられて遣瀬無《やるせな》いのは創傷《きず》よりも余程《よッぽど》いかぬ!
 さて大分熱くなって来たぞ。日が照付けるぞ。と、眼を開《あ》けば、例の山査子《さんざし》に例の空、ただ白昼というだけの違い。おお、隣の人。ほい、敵の死骸だ! 何という大男! 待てよ、見覚があるぞ。矢張《やッぱり》彼《あ》の男だ……
 現在俺の手に掛けた男が眼の前に踏反《ふんぞ》ッているのだ。何の恨が有っておれは此男を手に掛けたろう?
 ただもう血塗《ちみどろ》になってシャチコばっているのであるが、此様《こん》な男を戦場へ引張り出すとは、運命の神も聞えぬ。一体何者だろう? 俺のように年寄《としと》った母親が有《あろ》うも知《しれ》ぬが、さぞ夕暮ごとにいぶせき埴生《はにゅう》の小舎《こや》の戸口に彳《たたず》み、遥《はるか》の空を眺《ながめ》ては、命の綱の※[#「てへん+爭」、第4水準2−13−24]人《かせぎにん》は戻らぬか、愛《いと》し我子の姿は見えぬかと、永く永く待わたる事であろう。
 さておれの身は如何《どう》なる事ぞ? おれも亦《また》まツこの通り……ああ此男が羨《うらや》ましい! 幸福者《あやかりもの》だよ、何も聞《きか》ずに、傷の痛みも感ぜずに、昔を偲ぶでもなければ、命惜しとも思うまい。銃劒が心臓の真中心《まッただなか》を貫いたのだからな。それそれ軍服のこの大きな孔《あな》、孔《あな》の周囲《まわり》のこの血。これは誰《たれ》の業《わざ》? 皆こういうおれの仕業《しわざ》だ。
 ああ此様《こん》な筈ではなかったものを。戦争に出《で》たは別段悪意があったではないものを。出《で》れば成程人殺もしようけれど、如何《どう》してかそれは忘れていた。ただ飛来《とびく》る弾
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