れが見付かりさえすれば助かるのだ。事に寄ると、骨は避《よ》けているかも知れんから、そうすれば必ず治る。国へ帰って母にも逢える、マ、マ、マリヤにも逢える……
 ああ国へはこうと知らせたくないな。一思《ひとおもい》に死だと思わせて置きたいな。そうでもない偶然《ひょっと》おれが三日も四日も藻掻《もがい》ていたと知れたら……
 眼が眩《ま》う。隣歩きで全然《すっかり》力が脱けた。それにこの恐《おッそ》ろしい臭気は! 随分と土気色になったなア! ……これで明日《あす》明後日《あさって》となったら――ええ思遣られる。今だって些《ちっ》ともこうしていたくはないけれど、こう草臥《くたびれ》ては退《の》くにも退《の》かれぬ。少し休息したらまた旧処《もと》へ戻ろう。幸いと風を後《うしろ》にしているから、臭気は前方《むこう》へ持って行こうというもの。
 全然《すっかり》力が脱けて了った。太陽は手や顔へ照付ける。何か被《かぶ》りたくも被《かぶ》る物はなし。責《せめ》て早く夜になとなれ。こうだによってと、これで二晩目かな。
 などと思う事が次第に糾《もつ》れて、それなりけりに夢さ。

 大分永く眠っていたと見えて、眼を覚してみればもう夜。さて何も変った事なし、傷は痛む、隣のは例の大柄の五体を横たえて相変らず寂《じゃく》としたもの。
 どうも此男の事が気になる。遮莫《さもあれ》おれにしたところで、憐《いとお》しいもの可愛《かわゆい》ものを残らず振棄てて、山超え川越えて三百里を此様《こん》なバルガリヤ三|界《がい》へ来て、餓えて、凍《こご》えて、暑さに苦しんで――これが何と夢ではあるまいか? この薄福者《ふしあわせもの》の命を断ったそればかりで、こうも苦しむことか? この人殺の外に、何ぞおれは戦争の利益《たし》になった事があるか?
 人殺し、人殺の大罪人……それは何奴《なにやつ》? ああ情ない、此おれだ!
 そうそう、おれが従軍しようと思立った時、母もマリヤも止めはしなかったが、泣いたっけ。何がさて空想で眩《くら》んでいた此方《このほう》の眼にその泪《なみだ》が這入《はい》るものか、おれの心一ツで親女房に憂目《うきめ》を見するという事に其時はツイ気が付かなんだが、今となって漸《よ》う漸う眼が覚めた。
 ええ、今更お復習《さらい》しても始まらぬか。昔を今に成す由もないからな。
 しかし彼時《あのとき》親類共の態度《そぶり》が余程《よッほど》妙だった。「何だ、馬鹿|奴《め》! お先真暗で夢中に騒ぐ!」と、こうだ。何処を押せば其様《そん》な音《ね》が出る? ヤレ愛国だの、ソレ国難に殉ずるのという口の下から、如何《どう》して彼様《あん》な毒口《どくぐち》が云えた? あいらの眼で観ても、おれは即ち愛国家ではないか、国難に殉ずるのではないか? ではあるけれど、それはそうなれど、おれはソノ馬鹿だという。
 で、まず、キシニョーフへ出て来て背嚢《はいのう》やら何やらを背負《せおわ》されて、数千の戦友と倶《とも》に出征したが、その中でおれのように志願で行くものは四五人とあるかなし、大抵は皆成ろう事なら家《うち》に寝ていたい連中《れんじゅう》であるけれど、それでも善くしたもので、所謂《いわゆる》決死連の己達《おれたち》と同じように従軍して、山を超《こ》え川を踰《こ》え、いざ戦闘となっても負けずに能《よ》く戦う――いや更《もっ》と手際《てぎわ》が好いかも知れぬてな。尤も許しさえしたら、何も角《か》も抛《ほっ》て置いて※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]々《さっさ》と帰るかも知れぬが、兎も角も職分だけは能《よ》く尽す。
 颯《さっ》と朝風が吹通ると、山査子《さんざし》がざわ立《だ》って、寝惚《ねぼけ》た鳥が一羽飛出した。もう星も見えぬ。今迄薄暗かった空はほのぼのと白《しら》みかかって、※[#「車+(而+大)」、第3水準1−92−46]《やわらか》い羽毛《はね》を散らしたような雲が一杯に棚引き、灰色の暗霧《もや》は空へ空へと晴て行く。これでおれのソノ……何《なに》と云ったものかしら、生にもあらず、死にもあらず、謂わば死苦《しく》の三日目か。
 三日目……まだ幾日《いくか》苦しむ事であろう? もう永くはあるまい。大層弱ったからな。此|塩梅《あんばい》では死骸の側《そば》を離れたくも、もう離れられんも知れぬ。やがておれも是になって、肩を比《なら》べて臥《ね》ていようが、お互に胸悪くも思はなくなるのであろう。
 兎に角水は十分に飲むべし。一日に三度飲もう、朝と昼と晩とにな。

 日の出だ! 大きく盆のようなのが、黒々と見ゆる山査子《さんざし》の枝に縦横《たてよこ》に断截《たちき》られて血潮のように紅《くれない》に、今日も大方熱い事であろう。それにつけても、隣の――貴様はまア何となる
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