《おわり》に於ける全人類の裁判人を以て自から任じ給うのである、狂か神か、狂なる能わず故に神である、帝王も貴族も、哲学者も宗教家も皆|尽《ことごと》くナザレ村の大工の子に由て審判《さば》かるるのである、嗚呼世は此事を知る乎、教会は果して此事を認むる乎、キリストは人であると云う人、彼は復活せずと云う人、彼の再臨を聞いて嘲ける人等は彼の此言辞を説明する事が出来ない、主イエスは単に来世を説き給う者ではない、彼れ御自身が来世の開始者である[#「彼れ御自身が来世の開始者である」に傍点]、彼は単《ただ》に終末《おわり》の審判を伝え給う者ではない、彼れ御自身が終末の審判者である[#「彼れ御自身が終末の審判者である」に傍点]、パウロが曰いし如くに神は福音を以て(福音に準拠《じゅんきょ》して)イエスキリストを以て世を審判き給うのである(羅馬《ローマ》書二章十六節)、聖書は明白に此事を教える、此事を看過して福音は福音で無くなるのである、而して終末の審判はノアの大洪水の如くに大水大風を以て臨むとのことである、而して之に堪える者は存《のこ》り之に堪えざる者は滅ぶとのことである、而して存ると存らざるとは磐に拠ると拠らざるとに因るとのことである、而して磐は主イエス御自身である[#「磐は主イエス御自身である」に傍点]、彼[#「彼」は太字]に依頼《よりたの》み彼[#「彼」は太字]の聖言《みことば》に遵《したが》いて立ち、之に反《そむ》きて倒れるのである、人生の重大事とて之に勝る者はない、イエスを信ずる乎信ぜざる乎、彼の言辞に遵うか遵わざる乎、人の永遠の運命は此一事に由て定まるのである、而して能く此の事を知り給いしイエスは彼の伝道に於て真剣ならざるを得給わなかった、山上の垂訓は単に最高道徳の垂示ではない人の永遠の運命に関わる大警告である、天国の光輝《かがやき》と地獄の火とを背景として読むにあらざれば福音書の冒頭《はじめ》に掲げられたるイエスの此最初の説教《みおしえ》をすら能く解することが出来ないのである。
若しキリストが説かれし純道徳と称えらるる山上の垂訓が斯《かく》の如しであるならば其他は推して知るべしである、若し又人ありて馬太伝は猶太《ユダヤ》人に由て猶太人のために著されし書なるが故に自から猶太的思想を帯びて来世的ならざるを得ないと云うならば、異邦人に由て異邦人のために著わされし路加伝[#「路加
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