ことのできる遺物ではないと思います。しかして高尚なる勇ましい生涯とは何であるかというと、私がここで申すまでもなく、諸君もわれわれも前から承知している生涯であります。すなわちこの世の中はこれはけっして悪魔が支配する世の中にあらずして、神が支配する世の中であるということを信ずることである。失望の世の中にあらずして、希望の世の中であることを信ずることである。この世の中は悲嘆の世の中でなくして、歓喜の世の中であるという考えをわれわれの生涯に実行して、その生涯を世の中への贈物としてこの世を去るということであります。その遺物は誰にも遺すことのできる遺物ではないかと思う。もし今までのエライ人の事業をわれわれが考えてみますときに、あるいはエライ文学者の事業を考えてみますときに、その人の書いた本、その人の遺した事業はエライものでございますが、しかしその人の生涯に較《くら》べたときには実に小さい遺物だろうと思います。パウロの書翰《しょかん》は実に有益な書翰でありますけれども、しかしこれをパウロの生涯に較べたときには価値のはなはだ少いものではないかと思う。パウロ彼自身はこのパウロの書いたロマ書や、ガラテヤ人に贈った書翰よりもエライ者であると思います。クロムウェルがアングロサクソン民族の王国を造ったことは大事業でありますけれども、クロムウェルがあの時代に立って自分の独立思想を実行し、神によってあの勇壮なる生涯を送ったという、あのクロムウェル彼自身の生涯というものは、これはクロムウェルの事業に十倍も百倍もする社会にとっての遺物ではないかと考えます。私は元来トーマス・カーライルの本を非常に敬読する者であります。それである人にはそれがために嫌われますけれども、私はカーライルという人については全体非常に尊敬を表しております。たびたびあの人の本を読んで利益を得、またそれによって刺激をも受けたことでございます。けれども、私はトーマス・カーライルの書いた四十冊ばかりの本をみな寄せてみてカーライル彼自身の生涯に較べたときには、カ[ライルの書いたものは実に価値の少いものであると思います。先日カーライルの伝を読んで感じました。ご承知の通りカーライルが書いたもののなかで一番有名なものはフランス革命の歴史でございます。それである歴史家がいうたに「イギリス人の書いたもので歴史的の叙事、ものを説き明した文体からいえば、カーライルの『フランス革命史』がたぶん一番といってもよいであろう、もし一番でなければ一番のなかに入るべきものである」ということであります。それでこの本を読む人はことごとく同じ感覚を持つだろうと思います。実に今より百年ばかり前のことをわれわれの目の前に活きている画のように、ソウして立派な画人《えかき》が書いてもアノようには書けぬというように、フランス革命のパノラマ(活画)を示してくれたものはこの本であります。それでわれわれはその本に非常の価値を置きます。カーライルがわれわれに遺してくれたこの本は実にわれわれの貴ぶところでございます。しかしながらフランスの革命を書いたカーライルの生涯の実験を見ますと、この本よりかまだ立派なものがあります。その話は長いけれどもここにあなたがたに話すことを許していただきたい。カーライルがこの書を著《あら》わすのは彼にとってはほとんど一生涯の仕事であった。チョット『革命史』を見まするならば、このくらいの本は誰にでも書けるだろうと思うほどの本であります。けれども歴史的の研究を凝《こ》らし、広く材料を集めて成った本でありまして、実にカーライルが生涯の血を絞って書いた本であります。それで何十年ですか忘れましたが、何十年かかかってようやく自分の望みのとおりの本が書けた。それからしてその本が原稿になってこれを罫紙《けいし》に書いてしまった。それからしてこれはモウじきに出版するときがくるだろうと思って待っておった。そのときに友人が来ましてカーライルに遇《あ》ったところが、カーライルがその話をしたら「実に結構な書物だ、今晩一読を許してもらいたい」といった。そのときにカーライルは自分の書いたものはつまらないものだと思って人の批評を仰ぎたいと思ったから、貸してやった。貸してやるとその友人はこれを家へ持っていった。そうすると友人の友人がやってきて、これを手に取って読んでみて、「これは面白い本だ、一つドウゾ今晩私に読ましてくれ」といった。ソコで友人がいうには「明日の朝早く持ってこい、そうすれば貸してやる」といって貸してやったら、その人はまたこれをその家へ持っていって一所懸命に読んで、暁方《あけがた》まで読んだところが、あしたの事業に妨《さまた》げがあるというので、その本をば机の上に抛《ほう》り放《はな》しにして床《とこ》について自分は寝入ってしまった。そうすると翌朝彼の起きない前に下女がやってきて、家の主人が起きる前にストーブに火をたきつけようと思って、ご承知のとおり西洋では紙をコッパの代りに用いてクベますから、何か好い反古《ほご》はないかと思って調べたところが机の前に書いたものがだいぶひろがっていたから、これは好いものと思って、それをみな丸めてストーブのなかへ入れて火をつけて焼いてしまった。カーライルの何十年ほどかかった『革命史』を焼いてしまった。時計の三分か四分の間に煙となってしまった。それで友人がこのことを聞いて非常に驚いた。何ともいうことができない。ほかのものであるならば、紙幣《さつ》を焼いたならば紙幣を償《つぐな》うことができる、家を焼いたならば家を建ててやることもできる、しかしながら思想の凝《こ》って成ったもの、熱血を注いで何十年かかって書いたものを焼いてしまったのは償いようがない。死んだものはモウ活《い》き帰らない。それがために腹を切ったところが、それまでであります。それで友人に話したところが、友人も実にドウすることもできないで一週間|黙《だま》っておった。何といってよいかわからぬ。ドウモ仕方がないから、そのことをカーライルにいった。そのときにカーライルは十日ばかりぼんやりとして何もしなかったということであります。さすがのカーライルもそうであったろうと思います。それで腹が立った。ずいぶん短気の人でありましたから、非常に腹を立てた。彼はそのときは歴史などは抛りぽかして何にもならないつまらない小説を読んだそうです。しかしながらその間に己《おのれ》で己《おのれ》に帰っていうに「トーマス・カーライルよ、汝は愚人である、汝の書いた『革命史』はソンナに貴いものではない、第一に貴いのは汝がこの艱難《かんなん》に忍んでそうしてふたたび筆を執《と》ってそれを書き直すことである、それが汝の本当にエライところである、実にそのことについて失望するような人間が書いた『革命史』を社会に出しても役に立たぬ、それゆえにモウ一度書き直せ」といって自分で自分を鼓舞して、ふたたび筆を執って書いた。その話はそれだけの話です。しかしわれわれはそのときのカーライルの心cmはいったときには実に推察の情|溢《あふ》るるばかりであります。カーライルのエライことは『革命史』という本のためにではなくして、火にて焼かれたものをふたたび書き直したということである。もしあるいはその本が遺っておらずとも、彼は実に後世への非常の遺物を遺したのであります。たといわれわれがイクラやりそこなってもイクラ不運にあっても、そのときに力を回復して、われわれの事業を捨ててはならぬ、勇気を起してふたたびそれに取りかからなければならぬ、という心を起してくれたことについて、カーライルは非常な遺物を遺してくれた人ではないか。
今時《こんじ》の弊害は何であるかといいますれば、なるほど金がない、われわれの国に事業が少い、良い本がない、それは確かです。しかしながら日本人お互いに今要するものは何であるか。本が足りないのでしょうか、金がないのでしょうか、あるいは事業が不足なのでありましょうか。それらのことの不足はもとよりないことはない。けれども、私が考えてみると、今日第一の欠乏は Life 《ライフ》生命の欠乏であります。それで近ごろはしきりに学問ということ、教育ということ、すなわち Culture 《カルチュア》(修養)ということが大へんにわれわれを動かします。われわれはドウしても学問をしなければならぬ、ドウしてもわれわれは青年に学問をつぎ込まねばならぬ、教育をのこして後世の人を誡《いま》しめ、後世の人を教えねばならぬというてわれわれは心配いたします。もちろんこのことはたいへんよいことであります。それでもしわれわれが今より百年後にこの世に生まれてきたと仮定して、明治二十七年の人の歴史を読むとすれば、ドウでしょう、これを読んできてわれわれにどういう感じが起りましょうか。なるほどここにも学校が建った、ここにも教会が建った、ここにも青年会館が建った、ドウして建ったろうといってだんだん読んでみますと、この人はアメリカへ行って金をもらってきて建てた、あるいはこの人はこういう運動をして建てたということがある。そこでわれわれがこれを読みますときに「アア、とても私にはそんなことはできない、今ではアメリカへ行っても金はもらえまい、また私にはそのように人と共同する力はない。私にはそういう真似《まね》はできない、私はとてもそういう事業はできない」というて失望しましょう。すなわち私が今から五十年も百年も後の人間であったならば、今日の時代から学校を受け継いだかも知れない。教会を受け継いだかも知れませぬ。けれども私自身を働かせる原動力をばもらわない。大切なるものをばもらわないに相違ない。しかしもしここにつまらない教会が一つあるとすれば、そのつまらない教会の建物を売ってみたところがほとんどわずかの金の価値しかないかも知れませぬ。しかしながらその教会の建った歴史を聞いたときに、その歴史がこういう歴史であったと仮《かり》定《さだ》めてごらんなさい……この教会を建てた人はまことに貧乏人であった、この教会を建てた人は学問も別にない人であった、それだけれどもこの人は己のすべての浪費を節して、すべての欲情を去って、まるで己の力だけにたよって、この教会を造ったものである。……こういう歴史を読むと私にも勇気が起ってくる。かの人にできたならば己にもできないことはない、われも一つやってみようというようになる。
私は近世の日本の英傑、あるいは世界の英傑といってもよろしい人のお話をいたしましょう。この世界の英傑のなかに、ちょうどわれわれの留《と》まっているこの箱根山の近所に生まれた人で二宮金次郎という人がありました。この人の伝を読みましたときに私は非常な感覚をもらった。それでドウも二宮金次郎先生には私は現に負《お》うところが実に多い。二宮金次郎氏の事業はあまり日本にひろまってはおらぬ。それで彼のなした事業はことごとくこれを纏《まと》めてみましたならば、二十ヵ村か三十ヵ村の人民を救っただけに止《とど》まっていると考えます。しかしながらこの人の生涯が私を益し、それから今日日本の多くの人を益するわけは何であるかというと、何でもない、この人は事業の贈物にあらずして生涯の贈物を遺した。この人の生涯はすでにご承知の方もありましょうが、チョット申してみましょう。二宮金次郎氏は十四のときに父を失い、十六のときに母を失い、家が貧乏にして何物もなく、ためにごく残酷な伯父に預けられた人であります。それで一文の銭もなし家産はことごとく傾き、弟一人、妹一人持っていた。身に一文もなくして孤児です。その人がドウして生涯を立てたか。伯父さんの家にあってその手伝いをしている間に本が読みたくなった。そうしたときに本を読んでおったら、伯父さんに叱られた。この高い油を使って本を読むなどということはまことに馬鹿馬鹿しいことだといって読ませぬ。そうすると、黙っていて伯父さんの油を使っては悪いということを聞きましたから、「それでは私は私の油のできるまでは本を読まぬ」という決心をした。それでどうしたかというと、川辺の誰
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