後世への最大遺物
内村鑑三
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)余《よ》の講話を
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(例)洛陽|東山《ひがしやま》
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(数字は、底本のページと行数)
(例)[#26字下げ]東京青山において
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はしがき
この小冊子は、明治二十七年七月相州箱根駅において開設せられしキリスト教徒第六夏期学校において述べし余《よ》の講話を、同校委員諸子の承諾を得てここに印刷に附せしものなり。
事、キリスト教と学生とにかんすること多し、しかれどもまた多少一般の人生問題を論究せざるにあらず、これけだし余の親友京都便利堂主人がしいてこれを発刊せしゆえなるべし、読者の寛容を待つ。
明治三十年六月二十日
[#26字下げ]東京青山において
[#32字下げ]内 村 鑑 三
[#改頁]
再版に附する序言
一篇のキリスト教的演説、別にこれを一書となすの必要なしと思いしも、前発行者の勧告により、印刷に附して世に公《おおやけ》にせしに、すでに数千部を出《いだ》すにいたれり、ここにおいて余はその多少世道人心を裨益《ひえき》することもあるを信じ、今また多くの訂正を加えて、再版に附することとはなしぬ、もしこの小冊子にしてなお新福音を宣伝するの機械[#ママ]となるを得ば余《よ》の幸福何ぞこれに如《し》かん。
明治三十二年十月三十日
[#25字下げ]東京角筈村において
[#32字下げ]内 村 鑑 三
[#改頁]
改版に附する序
この講演は明治二十七年、すなわち日清戦争のあった年、すなわち今より三十一年前、私がまだ三十三歳の壮年であったときに、海老名《えびな》弾正《だんじょう》君司会のもとに、箱根山上、蘆の湖の畔《ほとり》においてなしたものであります。その年に私の娘のルツ子が生まれ、私は彼女を彼女の母とともに京都の寓居に残して箱根へ来て講演したのであります。その娘はすでに世を去り、またこの講演を一書となして初めて世に出した私の親友京都便利堂主人中村弥左衛門君もツイこのごろ世を去りました。その他この書成って以来の世の変化は非常であります。多くの人がこの書を読んで志を立てて成功したと聞きます。その内に私と同じようにキリスト信者になった者もすくなくないとのことであります。そして彼らの内にある者は早くすでに立派にキリスト教を「卒業」して今は背教者をもって自から任ずる者もあります。またはこの書によって信者になりて、キリスト教的文士となりて、その攻撃の鉾《ほこ》を著者なる私に向ける人もあります。実に世はさまざまであります。そして私は幸いにして今日まで生存《いきなが》らえて、この書に書いてあることに多く違《たが》わずして私の生涯を送ってきたことを神に感謝します。この小著そのものが私の「後世への最大遺物」の一つとなったことを感謝します。「天地無始終《てんちしじゅうなく》、人生有生死《じんせいせいしあり》」であります。しかし生死ある人生に無死の生命を得るの途が供えてあります。天地は失《う》せても失せざるものがあります。そのものをいくぶんなりと握るを得て生涯は真の成功であり、また大なる満足であります。私は今よりさらに三十年生きようとは思いません。しかし過去三十年間生き残ったこの書は今よりなお三十年あるいはそれ以上に生き残るであろうとみてもよろしかろうと思います。終りに臨《のぞ》んで私はこの小著述をその最初の出版者たる故中村弥左衛門君に献じます。君の霊の天にありて安からんことを祈ります。
大正十四年(一九二五年)二月二十四日
[#24字下げ]東京市外柏木において
[#32字下げ]内 村 鑑 三
[#改頁]
[#割書]夏期演説[#割書終わり] 後世への最大遺物
第 一 回
時は夏でございますし、処《ところ》は山の絶頂でございます。それでここで私が手を振り足を飛ばしまして私の血に熱度を加えて、諸君の熱血をここに注ぎ出すことはあるいは私にできないことではないかも知れません、しかしこれは私の好まぬところ、また諸君もあまり要求しないところだろうと私は考えます。それでキリスト教の演説会で演説者が腰を掛けて話をするのはたぶんこの講師が嚆矢《こうし》であるかも知れない(満場大笑)、しかしながらもしこうすることが私の目的に適《かな》うことでございますれば、私は先例を破ってここであなたがたとゆっくり腰を掛けてお話をしてもかまわないと思います。これもまた破壊党の所業だと思《おぼ》し召されてもよろしゅうございます(拍手喝采)。
そこで私は「後世への最大遺物」という題を掲げておきました。もしこのことについて私の今まで考えましたことと今感じますることとをみな述べまするならば、いつもの一時間より長くなるかも知れませぬ。もし長くなってつまらなくなったなら勝手にお帰りなすってください、私もまたくたびれましたならばあるいは途中で休みを願うかも知れませぬ。もしあまり長くなりましたならば、明朝の一時間も私の戴いた時間でございますからそのときに述べるかも知れませぬ。ドウゾこういう清い静かなところにありまするときには、東京やまたはその他の騒がしいところでみな気の立っているところでするような騒がしい演説を私はしたくないです。私はここで諸君と膝を打ち合せて私の所感そのままを演説し、また諸君の質問にも応じたいと思います。
この夏期学校に来ますついでに私は東京に立ち寄り、そのとき私の親爺《おやじ》と詩の話をいたしました。親爺が山陽《さんよう》の古い詩を出してくれました。私が初めて山陽の詩を読みましたのは、親爺からもらったこの本でした(本を手に持って)。でこの夏期学校にくるついでに、その山陽の本を再《ふたた》び持ってきました。そのなかに私の幼《ちい》さいときに私の心を励ました詩がございます。その詩は諸君もご承知のとおり山陽の詩の一番初めに載《の》っている詩でございます、「十有三春秋《じゅうゆうさんしゅんじゅう》、逝者已如水《ゆくものはすでにみずのごとし》、天地無始終《てんちしじゅうなく》、人生有生死《じんせいせいしあり》、安得類古人《いずくんぞこじんにるいして》、千載列青史《せんざいせいしにれっするをえん》」。有名の詩でございます、山陽が十三のときに作った詩でございます。それで自分の生涯を顧みてみますれば、まだ外国語学校に通学しておりまする時分《じぶん》にこの詩を読みまして、私も自《おのず》から同感に堪《た》えなかった。私のようにこんなに弱いもので子供のときから身体《からだ》が弱《よお》うございましたが、こういうような弱い身体であって別に社会に立つ位置もなし、また私を社会に引ッ張ってくれる電信線もございませぬけれども、ドウゾ私も一人の歴史的の人間になって、そうして千載青史に列するを得《う》るくらいの人間になりたいという心がやはり私にも起ったのでございます。その欲望はけっして悪い欲望とは思っていませぬ。私がそのことを父に話し友達に話したときに彼らはたいへん喜んだ。「汝にそれほどの希望があったならば汝の生涯はまことに頼もしい」といって喜んでくれました。ところが不意にキリスト教に接し、通常この国において説かれましたキリスト教の教えを受けたときには、青年のときに持ったところの千載青史に列するを得んというこの欲望が大分なくなってきました。それで何となく厭世的《えんせいてき》の考えが起ってきた。すなわち人間が千載青史に列するを得んというのは、まことにこれは肉欲的、不信者的、heathen 《ヒーゼン》的の考えである、クリスチャンなどは功名を欲することはなすべからざることである、われわれは後世に名を伝えるとかいうことは、根コソギ取ってしまわなければならぬ、というような考えが出てきました。それゆえに私の生涯は実に前の生涯より清い生涯になったかも知れませぬBけれども前のよりはつまらない生涯になった。マーどうかなるだけ罪を犯さないように、なるだけ神に逆らって汚《けが》らわしいことをしないように、ただただ立派にこの生涯を終ってキリストによって天国に救われて、未来永遠の喜びを得んと欲する考えが起ってきました。
そこでそのときの心持ちはなるほどそのなかに一種の喜びがなかったではございませぬけれども、以前の心持ちとは正反対の心持ちでありました。そうしてこの世の中に事業をしよう、この世の中に一つ旗を挙げよう、この世の中に立って男らしい生涯を送ろう、という念がなくなってしまいました。ほとんどなくなってしまいましたから、私はいわゆる坊主臭い因循的《いんじゅんてき》の考えになってきました。それでまた私ばかりでなく私を教えてくれる人がソウでありました。たびたび……ここには宣教師はおりませぬから少しは宣教師の悪口をいっても許してくださるかと思いまするが……宣教師のところに往《い》って私の希望を話しますると、「あなたはそんな希望を持ってはいけませぬ、そのようなことはそれは欲心でございます、それはあなたのまだキリスト教に感化されないところの心から起ってくるのです」というようなことを聞かされないではなかった。私は諸君たちもソウいうような考えにどこかで出会ったことはないことはないだろうと思います。なるほど千載青史に列するを得んということは、考えのいたしようによってはまことに下等なる考えであるかも知れませぬ。われわれが名をこの世の中に遺《のこ》したいというのでございます。この一代のわずかの生涯を終ってそのあとは後世の人にわれわれの名を褒め立ってもらいたいという考え、それはなるほどある意味からいいますると私どもにとっては持ってはならない考えであると思います。ちょうどエジプトの昔の王様が己《おの》れの名が万世に伝わるようにと思うてピラミッドを作った、すなわち世の中の人に彼は国の王であったということを知らしむるために万民の労力を使役して大きなピラミッドを作ったというようなことは、実にキリスト信者としては持つべからざる考えだと思われます。有名な天下の糸平が死ぬときの遺言《ゆいごん》は「己れのために絶大の墓を立てろ」ということであったそうだ。そうしてその墓には天下の糸平と誰か日本の有名なる人に書いてもらえと遺言した。それで諸君が東京の牛《うし》の御前《ごぜ》に往《い》ってごらんなさると立派な花崗石《かこうせき》で伊藤博文さんが書いた「天下之糸平」という碑が建っております。それは、その千載にまで天下の糸平をこの世の中に伝えよというた糸平の考えは、私はクリスチャン的の考えではなかろうと思います。またそういう例がほかにもたくさんある。このあいだアメリカのあ髏V聞で見ましたに、ある貴婦人で大金持の寡婦《やもめ》が、「私はドウゾ死んだ後に私の名を国人に覚えてもらいたい、しかし自分の持っている金を学校に寄附するとかあるいは病院に寄附するとかいうことは普通の人のなすところなれば、私は世界中にないところの大なる墓を作ってみたい、そうして千載に記憶されたい」という希望を起した。先日その墓が成ったそうでございます。ドンナに立派な墓であるかは知りませぬけれども、その計算に驚いた、二百万ドルかかったというのでございます。二百万ドルの金をかけて自分の墓を建ったのは確かにキリスト教的の考えではございません。
しかしながらある意味からいいますれば、千載青史に列するを得んという考えは、私はそんなに悪い考えではない、ないばかりでなくそれは本当の意味にとってみまするならば、キリスト教信者が持ってもよい考えでございまして、それはキリスト信者が持つべき考えではないかと思います、なお、われわれの生涯の解釈から申しますると、この生涯はわれわれが未来に往く階段である。ちょうど大学校にはいる前の予備校である。もしわれわれの生涯がわずかこの五十年で消えてしまうものならば実につまらぬものである。私は未来永遠に私
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