とセムボビチスが云つた。
『しかし其しるしはよく解らぬものだと云はねばなるまい。唯其研究をしてゐる間だけ己はバルキスの事を忘れてゐる。それが何よりの賜物だ』と王が答へた。
魔法師は、是非知らねばならぬ真理の一として、星は鋲のやうに蒼穹に固着してゐるものだと云ふことを教へた。それから又空には五の遊星がある。ベルとメロダクとネボは陽で、シンとミリタは陰だと云ふ事を教へた。魔法師は説明の歩をすすめて、
『銀はシンに相当致します。シンとは月の事でございます。又鉄はメロダクに、錫はベルに相当致します。』
バルタザアルはかう答へた。『己の望んでゐる知識と云ふのはそれだ。天文を研究してゐる間は、己はバルキスの事も思はなければ、其他の地上の塵事をも忘れてゐる。学問はよいものだ。学問は人間を考へさせずに置くものだ。セムボビチス、お前は己に知識を教へてくれるがよい。知識は人間の持つてゐるすべての感情を破壊するものだ。知識を教へてくれるならば、己はお前に万民の瞻仰《せんぎやう》する名誉を与へてやる。』
之がセムボビチスの王に知識を教へた理由であつた。
魔法師は王にアストラムプシコスやゴブリアスやバザタスの道に従つて魔術の力を教へた。バルタザアルは太陽の十二宮を研究すればする程、バルキスの事を忘れて行つた。メンケラは之れを見て歓喜にみたされたのである。
『陛下、バルキス女王の金の袍の下には、山羊の様な趾の裂けた足があるさうでございます。』
『誰がそんな馬鹿な事を云つた。』
『陛下、シバとエチオピアでは誰でも申す事でございます。バルキス女王の片|脛《はぎ》は毛だらけで、片足は二つに裂けた黒い爪ぢやと皆が申して居ります』と宦官はかう答へるのである。
バルタザアルは肩を聳かした。バルキスが足でも脛でも外の女と変りなく、其上点の打ち所の無い程美しいのを知つてゐるからである。けれども其何でもない考があのやうに深く愛してゐた女の記憶を傷けた。王はバルキスの美しさが、何もしない人々の想像では瑕物になつてゐると云ふ事を考へると、今更のやうに女王が嫌になつた。事実は玉のやうに美しいにせよ、異類で通つてゐる女と関係したのだと思ふと、王ははげしい嫌悪の情を感ぜずにはゐられなかつた。二度とバルキスに逢ふ気は起らない。バルタザアルは単純な心を持つてゐた。けれども恋と云ふものは複雑な情緒だつたのである。
其日から王は魔術にも星占術にも長足の進歩をした。綿密な注意を払つて星の交会を研究したり、セムボビチスと寸毫も変らず正確に星占図を引いたりする。
『セムボビチス、お前は己の星占図の真だと云ふ事を首にかけてもうけ合ふ心算か』かう王が尋ねたことがある。
『陛下、学問に間違ひはございませぬ。けれども、学者は度々間違ひを致します』と賢人セムボビチスが答へた。
バルタザアルはすぐれた官能を持つてゐた。そこで『真なる物のみが聖である。聖なる物は人間の智を絶してゐる。人間は空しく真理を探求するに過ぎない。けれども己は空に新しい星を発見した。美しい星である。生きてゐる様にも思はれる。きらめく時はやさしく瞬く天上の眼のやうに見える。己はそれが呼んでゐる様な気がする。此星の下に生れるものは何と云ふ幸福だらう。セムボビチス、此愛らしい美しい星がどんなに己たちを照してゐるか見たがよい』とかう云つた。
けれどもセムボビチスは星を見なかつた。それは見ようと思はなかつたからである。賢くしかも年老いた魔法師は新奇を好まない。
夜の沈黙の中にバルタザアルは独り繰返した。『此星の下に生れたものは何と云ふ幸福だらう。』
五
バルタザアル王がバルキスを愛さなくなつたと云ふ噂がエチオピアと近隣の王国とに播《ひろま》つた。
其知らせがシバの国に伝はると、バルキスは裏切でもされた様に腹を立てた。そしてシバの都に自分の国も忘れてうかうかと時を過してゐたコマギイナの王の所へ駈けて行つた。
『あなた、今あたしが何を聞いたか御存じ? バルタザアルがもうあたしを愛さないのでございますとさ。』
『そんな事は何でもないぢやないか。己達はお互に愛しあつてゐるのだから。』
とコマギイナの王が答へた。
『だつて、あなたはあの黒奴がわたくしを侮辱したとはお思ひになりませんの。』
『さうは思はないね。』
そこで女王は王をさんざん辱めて目通りを却けた。それから宰相に云ひつけて、エチオピアへ旅の支度をさせた。
『わたし達は今夜立つのだよ。日暮迄に支度が出来ないと、お前の首を斬るからさうお思ひ。』
けれども独りになると女王はさめざめと泣きはじめた。『わたくしはあの人を恋してゐる。あの人はもうわたしを思つてゐないのだ。それだのにわたしはあの人を恋してゐる』女王はかう云つてまごころから歎息をついたのであつた。
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