或夜バルタザアルが塔の上であの不思議な星を眺めてゐた時に、ふと眼を地上に転ずると、蟻の群の様に一条の黒い長い線が沙漠の遠いはてに逶※[#「二点しんにょう+施のつくり」、第3水準1−92−52]《ゐい》としてうねつてゐるのが見えた。
 蟻と見えた物が少しづつ大きくなつて、やがて王には多くの馬、多くの駱駝、多くの象を弁別する事が出来る様になつた。
 旅人の隊が市に近づいた時に、バルタザアルはシバの女王の護衛兵の黒い馬と夜目にも輝く偃月刀《えんげつたう》とを認めたのである。否、女王自身さへも認めたのである。王ははげしい懊悩を感じた。それは又女王に恋をし兼ねない様な気がしたからである。星は神秘な光明を放つて天上に輝いてゐる。下には紫と金との輿の上にバルキスが星のやうに小さくきらめいて見えるのである。
 バルタザアルは恐しい力で女王の方に引寄せられるのを感じた。けれども王は猶必死の勇を鼓して頭をそむけた。そして眼を上げて再び星を眺めた。すると星がかう云ふのである。
『天なる神に光栄あれ。地なる善人に平和あれ。国王バルタザアルよ。一斗の没薬をとりてわれに従へ。われ汝を導きて、今や厩の中、驢馬と牡牛との間に生れむとする幼な児の足下に至らしめむ。
 此幼な児は王の中なる王なり。そは慰めを要するなべての者を慰めむとするなり。
 主は汝を主の下に召給へり。バルタザアルよ。汝のたましひは汝の面の如く黒けれど、汝の心は幼な児の心の如くけがれ無し。
 主は汝を選み給へり。そは汝の苦しめるが故なり。主は汝に富と幸福と愛とを与へ給はむ。
 主は汝に云ひ給はむ。「貧しきをよろこべ。そはまことの富なり」と。主は又汝に云ひ給はむ。「まことの幸福は幸福をすつるにあり。われを愛せ。わが外なる一切の者を愛する勿れ。そはわれのみ愛なればなり」と。』
 此言葉と共に神聖な平和が、光の洪水の如くバルタザアルの黒い面に落ちた。
 バルタザアルは恍惚として星の云ふ事に耳を傾けた。王は自ら新に生れた人間になりつつあるのを感じたのである。
 王の傍には身をひれ伏して、セムボビチスとメンケラとが面を石につけて礼拝してゐる。
 バルキスはぢつとバルタザアルを見た。女王は、神の愛にみちた心には己の愛を容るるの余地の無いのを知つたのである。色を変へて憤りながら、女王は一行に直にシバへ帰れと命を下した。
 星が語り止むと共に、バルタザアルと其従者とは塔を下つた。それから一斗の没薬を調へ、旅隊をつくつて、星の導く方に出発した。
 一行は長い間、見もしらぬ国から国へと旅を続けた。其の間も星は常に一行の前に立つて導いてくれるのである。
 或日、三の路が一になる処へ来ると、一行は二人の王が無数の行列を従へて来るのに出遇つた。其一人は若くて美しい顔をしてゐる。
 それがバルタザアルに礼をしてかう云ふのである。
『寡人の名はガスパアと云ふ。ユダヤのベツレヘムに生れようとしてゐる小児へ贈物の黄金《きん》を持つて行く所なのだ。』
 第二の王が代つて前へ出た。老人で白い髯が胸を掩つてゐる。
『寡人の名はメルキオルと云ふ。人間に真理を教へようとする尊い小児に乳香を持つて行く所なのぢや。』
『寡人も卿等の行く所へ行かなければならぬ。寡人は楽欲に克つた其の為に、星が寡人に言をかけてくれたのだ』とバルタザアルが云つた。
『寡人は驕慢に克つた。寡人の召されたのは其為ぢや』とメルキオルが云つた。
『寡人は虐行に克つた。其故に寡人は卿等と共に行くのだ』とガスパアが云つた。
 かくして三人の賢人は共に旅を続けた。東方に見えた星は彼等に先立つて、遂に其小児のゐる所へ来ると、其上に止つた。星の止つてゐるのを見て、彼等は我を忘れて喜んだのである。
 家の中に入ると、彼等は小児が母のマリヤと共にゐるのを見た。そこで身をひれ伏して、彼等は其幼な児を礼拝した。それから其財宝をひらいて、金と乳香と没薬とを捧げたのは、福音書に書いてある通りである。
[#地から2字上げ](Mrs. John Lane の英訳より)



底本:「芥川龍之介全集 第一巻」岩波書店
   1995(平成7)年11月8日発行
底本の親本:「鼻」春陽堂
   1918(大正7)年7月8日発行
入力:earthian
校正:山本奈津恵
1998年11月26日公開
2004年3月17日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全6ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
フランス アナトール の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング