つた。
バルタザアルは十五日の間、人事不省に陥つたまゝ横になつてゐた。王は譫言に止度なく、煮え立つてゐる大鍋と谷あひの苔の事とを云ふのである。絶えず大きな声でバルキス、バルキスと叫ぶのである。やつと十六日目に王は眼を開いて床の側にゐるセムボビチスとメンケラとを見た。けれども女王は見えない。
『女王はどこにゐる? 女王は何をしてゐる?』
『陛下、女王はコマギイナの王と密室で謁見して居られます』とメンケラが答へた。
『きつと商品を交易する契約を致して居るのでございませう』と賢人のセムボビチスがつけ加へた。
『御機嫌を悪くなさいますな。陛下、御熱がまた上りますといけません。』
『己は女王に会はなければならぬ』バルタザアルは大きな声でかう云つた。さうして女王の部屋の方へと飛んで行つた。賢人も宦官も止める事が出来ない。女王の寝室に近づくと王は、コマギイナの王が来るのに遇つた。王は金に蔽はれて太陽の様に輝いてゐたのである。バルキスはほほゑみながら眼を閉ぢて、紫の臥榻《ぐわたふ》の上に横はつて居た。
『バルキス! バルキス!』とバルタザアルが呼んだ。けれども女王はふり向きもしない。唯一刻でも夢を延ばさうとしてゐる様に見える。バルタザアルは側へよつて女王の手をとつた。女王は素気なく其手を振離した。そして『何か御用?』と云つた。
『何の用だかわからないのかい』かう云つて黒人の王は涙を流した。女王は瞳を王の上に転じた。つれない、静かな眼なざしである。王は女王が何も彼も忘れて居るのだと思つた。そこであの小川の夜を思出させようとした。けれども女王はかう云ふのである。
『陛下、わたくしには陛下が何を仰有つていらつしやるのだか、まつたくわからないのでございますよ。陛下には椰子の酒が御体に合はないのでございませう。きつと夢を御覧になつたのでございますわ。』
『夢だ?』王は身悶えをして叫んだ。『お前の接吻が、己の体に創痕を残したナイフが夢だと云ふのか。夢だと?』
女王は身を起した。袍についてゐる宝石が霰のやうな音を立てて、きらきらと光るのである。
『陛下、丁度議会が始まる時刻でございます。わたくしには陛下の御酒機嫌の夢を御解き申上げる暇がございません。少し御休息遊ばしませ。では失礼致します。』
バルタザアルは立つては居られないやうな気がした。けれども此妖婦に弱みを見せてはならないと、根限りの力を尽して、自分の部屋へ駈けて帰つて来た。帰ると、王は卒倒した。そして傷口が又開いてしまつたのである。
四
王は三週間人事不省のまま横はつてゐたが、二十二日目に人心地がついて、メンケラと共に看病してゐたセムボビチスの手をとつた。王は泣きながらかう云ふのである。
『お前たち、お前たちは何と云ふ仕合せなのだらう。一人は年をとつてゐるし、一人は年よりも同じ事ではないか。けれども此世には幸福と云ふものは無い。皆悪いものばかりだ。何故と云ふがいい。恋も禍ならバルキスも不貞ではないか。』
『智慧は幸福を与へまする』とセムボビチスは答へた。
『己もさうして見ようと思つてゐる。が一刻も早くエチオピアへ帰らうではないか』バルタザアルはかう云つた。
王は愛するすべての物を失つたので、一身を智慧に捧げて魔法師の一人にならうと決心した。此決心は格別王に快楽を与へなかつたにしても、少くとも平静な心だけは回復してくれたのである。王は毎夜、魔法師のセムボビチスと宦官のメンケラと共に王宮の露台に坐して、地平線を遮つてそよりともせずに立つてゐる椰子の木を見つめたり、材木のやうにナイル河を下つて来る鰐の群を月あかりで見守つたりした。
『自然の美しさはたたへて倦む事を知りませぬ』とセムボビチスが云つた。
『それは確だ。しかし自然には其外に、椰子の木や鰐よりも美しい物があるのだ』王はバルキスの事を考へながらかう云つた。
けれ共年老つたセムボビチスが答へるには、
『勿論ナイル河の氾濫の様な現象もございます。併しそれは私がもう解釈致しました。人間は理解する為につくられたものでございます。』
『人間は愛する為に造られたものだ。世の中には解釈の出来ぬ事が沢山ある。』
歎息しながら、バルタザアルが云つた。
『それは何でございませうか』とセムボビチスが問ふと、王はかう答へた。
『女の心がはりだ。』
けれどもバルタザアルは魔法師にならうと決心したから、塔を一つ建てた。其の頂からは多くの王国と無辺の天空とが望まれるのである。塔は煉瓦造りですべての塔の上に高く聳えてゐる。落成するには二年の日子を費した。
バルタザアルは此塔の建築に父王の全財宝を傾けたのであつた。毎夜王は塔の頂に登つた。其処で賢人セムボビチスの指導の下に天文の研究をするのである。
『天上の星宿は人間の運命を示すものでございます』
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