わめき立てて、何うしても二人を通すまいとする。そこでバルタザアルは拳をかためて亭主を一なぐりに殴り仆した。之を見て酔たんぼが五六人、ナイフを抜いて、二人に向つて来た。けれどもバルタザアルが埃及葱《エジプトねぎ》を撞くのに使ふ大きな杵を取つて、いきなり向つて来る奴を二人叩き仆したので、外の奴はしり込みをして手を出さない。女王はバルタザアルの陰にぴたりくつついて小さくなつてゐる。そこで王は始終バルキスの肌の温みを感じる事が出来た。王をして勇往果敢ならしめた理由は蓋し是にあつたのである。
 居酒屋の亭主の仲間は、側へは寄りつかずに、酒場の隅から油壺だの白鑞をひいた皿小鉢だの火のついたランプだのを抛りつける。仕舞には羊が丸ごと煮えてゐた大きな青銅《からかね》の鍋さへも投げつけた。鍋は恐しい音を立てながら、バルタザアルの頭の上に落ちて脳天に傷を負はせた。流石のバルタザアルも暫の間は眼が眩んだ様に立つてゐたが、やがて渾身の力をあつめて其鍋を投げ返した。鍋の目方が十倍になる程の勢である。凄じい音を立てて鍋がぶつかると共に名状し難い怒号と断末魔の叫喚とが起つた。バルキスに怪我でもあつてはと、王は生残つた奴の恐れに乗じて、女王を抱いたまま、人通りの無い側路《わきみち》へ逃げこんだ。路はまつ暗でしんとしてゐる。夜の静けさが地をつつんでゐるのである。逃げて来た二人は、偶然其跡を追つて来た女や酔どれの罵る声が暗の中に消えてゆくのを聞いた。間もなく聞えるのは唯血の滴る音ばかりになつた。血はバルタザアルの額からバルキスの胸に滴るのである。
『わたくしはあなたを愛して居りますわ』とつぶやくやうに女王が云つた。
 雲を洩れる月の光で王は女王の半ば閉ぢた眼が水々しく、白くかがやいてゐるのを見た。二人は小川の水のない河床を、下つて行くのである。不意にバルタザアルが苔に足を滑らせた。緊く抱きあつたまま、二人は地に仆れた。永遠に歓楽の淵に沈んで行くやうな気がする。世界も二人の恋人には何処かへ行つて仕舞つた。夜があけて石間の窪地へ羚羊が水をのみに来た時にも、二人はまだ時間を忘れ、空間を忘れ、別々の体を持つて生れた事を忘れて、温柔の夢に耽つてゐたのである。
 其時に通りがかりの盗人の一隊が、苔の上に寝てゐる恋人を見つけた。そして『奴等は金はないが、いい価に売れるぜ。若くつて、面がいいからな』と云つた。
 そこで二人を取巻いてぐるぐる巻きにした。それから驢馬の尻尾にくくりつけて又路を急いだ。
 エチオピア王は縛られながら「殺すぞ」と云つて盗人を嚇したが、バルキスは冷い朝風に身をふるはせながら、未だ見ぬ物を見るやうに、唯ほほゑむばかりであつた。
 おそろしい寂寞の中に、驢馬は蹄を鳴らしながら行つた。其中にそろそろ真昼の暑さを感ずるやうになつた。日が高くなつてから、盗人たちは二人の俘の縄を解いて岩の陰に坐らせた。それから黴た麺麭を投げてくれた。バルキスはひもじさうに食べたが、バルタザアルは見向きもしない。
 女王が哂つた。盗人の頭は之を何故哂ふと訊ねた。
『今にね、お前たちを皆絞罪にしてやるのだと思ふとをかしくなるのだよ。』
『へん、手前の様な下司の女の口から大層な熱をふくぜ。どうだい、いろ女。お前はてつきりあの黒奴のいい人に己達の首をしめさせようと云ふのだらう』盗人の頭が大きな声でかう云つた。
 バルタザアルは之をきくと火のやうに怒つた。そして矢庭にとびかかつて其盗人の頸を掴んだ。絞め殺し兼ねない勢である。
 けれども相手はナイフを抜いて、王の体へ柄元迄づぶりとつき立てた。可哀さうに王は地に転《まろ》んで、最後の一瞥をバルキスの上に投げると、其儘視力を失つて仕舞つたのである。

       三

 此時人馬剣戟の響が騒然として起つた。バルキスには家来のアブナアが護衛兵の先頭に立つて女王を救ひに来たのが見えた。家来は女王が行方知れずになつたのを夜の中に聞いてゐたのである。
 アブナアは三度バルキスの足下に拝伏して、それから女王を迎へる為に用意した輿を持つて来させた。其間に、護衛兵は盗人の手を悉く縛つてしまつた。
『お前さん、あたしはお前さん達を絞罪にすると云ひましたね。約束に※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]はないでせう』女王は盗人の頭に向つて、やさしい声でかう云つた。
 此時アブナアの側に立つてゐた魔法師のセムボビチスと宦官のメンケラとが、おそろしい叫び声をあげた。王が腹にナイフを突立てられて身動きもせずに仆れてゐたからである。
 二人はそつと王を抱き起した。薬物の学に精通してゐるセムボビチスは、王がまだ呼吸《いき》のある事がわかつた。そこでメンケラが王の唇から泡を拭つてゐる間に仮に傷口を繃帯した。それから二人で王を馬に括りつけ、静かに女王の宮殿へつれて行
前へ 次へ
全6ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
フランス アナトール の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング