烈日
若杉鳥子
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【テキスト中に現れる記号について】
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「口+它」、第3水準1−14−88]
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[#3字下げ]急坂[#「急坂」は中見出し]
私が坂を下りやうとした時、下の方から急激な怒號が起つた。
罵る叫ぶ叱※[#「口+它」、第3水準1−14−88]する、呻く力を張る、そのどの聲でもあるやうに聽えた。
坂上には忽ち多くの人や車が停滯して、みな怖る怖る坂下を見おろしてゐた。
坂の下では三人の荒くれ男が、三頭の牛に、瓦斯タンクのやうに偉大な眞つ黒な蒸汽氣罐を牽かして來て、そこでこの急坂を奔け上る爲に、眞劒になつて牛を勵ましてゐる處だつた。
然し牛はあの調子で意外な儲けものでもしたやうな顏をして緩る緩ると休むでゐる。
まるで鈍重な意地そのものゝやうに見える。牛方の顏はまるで仁王のやうに血と汗で彩色され、狂氣のやうに物淒い怒號を續ける。
ほらつしよ、よいつしよお、ほらつしよ、よいつしよお……牛は手綱を強く引つ張られる度に、その白つぽく砂に塗れた大きなからだを支える爲に、痩せた後肢を後へと突つ張つて喘いだ。
さうしてやつと、坂の途中まで上りかけた彼等は、そこでちよつとでも氣を緩めやうものなら、忽ちドオーツと、はづみを啖つて、その過重な荷と共に無慘な轉落をするだろう。
牛も臀部の筋肉を痛々しく露出させて、極度の努力を示してゐれば、牛方の男も何とも意味の解らない怒號を發しつゞけてゐる。
今、今、牛も人も氣が狂つて、何ものにか突進してくるのではないか!
私は思はず何處かに遁げ場を求めやうとして周圍を見廻した。
巡査も群衆も皆ひとりでに逃げ道を用意しながら、凝とその光景を見つめてゐた。
よいつしよ、ほらつしよ、よいつしよお……牛方はやつぱり、唯是れ鬪爭――といふ氣勢で、愛情も生命も投げ出してしまつたものゝやうに、死力を盡して叫ぶ。
それでも牛は、つぶらな可愛い、體の割に小さい瞳を、無邪氣に柔順に※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]り、咽喉のたるみ[#「たるみ」に傍点]をいよいよ急しくひこひこ[#「ひこひこ」に傍点]と波打たせ涎の絲を地にひきながら、疾う疾う坂を上り切つた。
それを見送つてゐると
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