梁上の足
若杉鳥子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)調帶《ベルト》

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(例)ちやあや[#「ちやあや」に傍点]
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 晝間、街から持つて來た昂奮が、夜中私を睡らせなかつた。
 おまけに、腦天を紛碎しさうな鋲締機の足踏みが、間斷なく私の妄想の伴奏をした。

 私が、骨組み許りのビルヂングの作業場の前を通りかゝると、其處には今しがた何か異變でもあつたと見えて、夥しい人間が集まつて急しく動作してゐた。多分檢屍官でゞもあろう白い服を被た役人と巡査とを乘せたオートバイが、その前に止まると、今迄梁の上に上つてゐた黒い人影は、蜘蛛の子のやうに散つてしまつた。
 すると、鐵骨と鐵骨との間に架した横木の上に、一人の勞働者らしい人間が横たはつてゐる。往來の方へは蹠を向けてゐるので、その脛に捲きついた黒つぽい股引きの他は何も見る事は出來なかつた。
 群衆は、殘照に彩られたビルヂングを見上げながら、屍體の引き下ろされるのを待つてゐた。
「あの男は、獨り者なんですかい?」
「もう相當の年配らしいですよ。親も妻子もあるでせうがなあ」
「どういふもんでせうな斯んな場合は、會社の方から、幾分遺族の扶助料でも出すもんでせうかなあ‥‥‥」
「いゝやあ‥‥‥さういふ事は先ず絶對にないといつていゝでせうな、感電なんてかういふ場合は、大てい震死者それ自身の過失が多いですからね」
「よくよく運の惡い廻り合せです、もう三十分も無事なら、あの男は仕事をすませて、元氣な顏で彼處を降りて歸つていつたんですがな‥‥‥」
「實際ですよ。」
 私はこの突發事件が何であろうかを知る爲に熱心に群衆の會話を聽いてゐた。
 さうしてゐる中に、私は必ず何處かで、これと同樣の事件、寸分違はない出來事に遭遇した事があるやうに思へて來た。
 何處かで! 確に何處かで! 遠い過去だつたか、夢の中にだつたか‥‥‥
 然しそれは私の混迷でも錯覺でもない。
 鐵骨の上に横へられた足、あれは昔若かつた父の、農村から都會へと、勞働と幸福を[#底本では「農村から都會へ勞働へと幸福を」と誤記]求めていつた、煉獄の姿としての、私の心の壁畫だつたから‥‥‥

 私は眠つてゐるのか覺めてゐるのか?
 頭の上で鋲締機が鳴りつゞける。
 鉛色の蹠が二つ、私の網膜に貼りついてゐる
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