に腹が立って仕方がなかった。
 夕方、親子三人は気まずく食卓を囲んで向かいあっていたが、その時そっと格子が開いた。
「また、誰か来たようだぜ。」
 兄は耳さとくいって箸を置いた。
「そうかい――」
 母親はみを子にそっと眼くばせをした。
 みを子は前掛けを口にあてて、そそくさと立って行った。母親が聴き耳を立てていると、みを子は下駄を突っかけて外へ出たようだった。そして十分程経ってから戻って来た。母親にはその十分がひどく長く感じられた。
「あの山崎とかって人かえ?」
 母親はその青年が始めて訪ねて来た時名を覚えていた。
「ん……」
 みを子は下を向いて頷いた。すると、今度は兄がきいた。
「その山崎って奴、何だい?」
 みを子が黙っていると、露骨に憎悪を漲《みなぎ》らして、
「そいつがその…………お前たちの指導者だっていうんかね。」
 わざと冷笑的にいった。
 みを子はムッとしたが黙っていた。
 兄はある製作所の木版工の中から、優秀な技術者として抜擢され、現在では印刷局の鐫工《せんこう》に雇われている。従って、この名人気質をぶらさげている彼と、みを子はどうしてもうまく行かなかった。そればかりでなく、職工であって、同時に月給取りである彼は、青年労働者の生活がどうすればよくなる――なんて、初歩的なことすら少しも考えはしなかった。しかし、それでいながら彼は、ブル新聞に現れた左翼の運動の記事を熱心に読む、そして無暗に受け入れて兎や角いう。
「山崎って、どんな男か知らないがね、お前たちみたいな女事務員や、百貨店の売子なんていう街頭分子なんて組織して一体どうしようていうんだい……」
 その晩もとうとうまた彼は始めた。
 みを子は兄が山崎のことをいってる間は、黙ってる方がいい――と思っていた。しかし話が組合のことに触れてくると、もう黙ってはいられなくなったのだ。
「何故そんな訳の解らないことをいうの兄さん――私たちは、ちゃんと職場を持っているんですよ。」
 みを子は兄の僭越と無理解とに腹が立った。
「兄さんこそ、兄さんこそ、大きい工場に働いていながら独りぼっちで、向こうのいうなり次第になってるじゃないの、長い長い見習期間を、少しばかりの月給貰って、くる日もくる日も唐草ばかり彫って……」
 みを子が唐草というのは、紙幣の図案の一部分のことだった。
「――私たち生活をよくするには、ただ一
前へ 次へ
全9ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
若杉 鳥子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング