うにん》の容態《ようたい》は、刻々《こく/\》險惡《けんあく》になつてゆくので、たうとう、そこから餘《あま》り遠《とほ》くない、府下《ふか》××村《むら》のH病院《びやうゐん》へ入院《にふゐん》させるより仕方《しかた》がなくなつた。それはキリスト教《けう》の教會《けうくわい》の附屬《ふぞく》病院《びやうゐん》なので、その事《こと》に就《つ》いては、大分《だいぶ》異議《いぎ》を持出《もちだ》した者《もの》もあつたが、この場合《ばあひ》一|刻《こく》も、病人《びやうにん》を見過《みすご》して置《お》く事《こと》はできなかつた。さうして彼女《かのぢよ》は何《なに》も知《し》らずに、婦人達《ふじんたち》に見守《みまも》られながら、靜《しづ》かに寢臺車《しんだいしや》で搬《はこ》ばれた。
冷氣《れいき》は酢《す》のやうに彼女《かのぢよ》の體《からだ》を浸《ひた》してゐた。
硝子《ガラス》戸《ど》の外《そと》には秋風《あきかぜ》が吹《ふ》いて、木《こ》の葉《は》が水底《みなそこ》の魚《さかな》のやうに、さむ/″\と光《ひか》つてゐた。
此處《ここ》はどこなのかしら――彼女《かのぢよ》は起《お》き上《あが》らうと意識《いしき》の中《なか》では藻掻《もが》いたが、體《からだ》は自由《じいう》にならなかつた。
西《にし》の空《そら》はいま、血《ち》みどろな沼《ぬま》のやうに、まつ紅《か》な夕《ゆふ》やけに爛《たゞ》れてゐた。K夫人《ふじん》は立《た》つて西窓《にしまど》のカーテンを引《ひ》いた。
病人《びやうにん》は不安《ふあん》な眼《め》を室内《しつない》に漂《たゞよ》はしてゐたが、何《なに》か物《もの》をいひたさうに、K夫人《ふじん》の動《うご》く方《はう》を眼《め》で追《お》つてゐた。
『あなたはいま重態《ぢうたい》なんですから、お氣《き》をおちつけて、靜《しづ》かにしてゐなければいけませんのよ、此處《ここ》? 此處《ここ》ですか……』
K夫人《ふじん》はいひ澁《しぶ》つたが、氣《き》の毒《どく》さうに病人《びやうにん》を見《み》ていふのだつた。
『此處《ここ》は、御存《ごぞん》じでせう、ほら××村《むら》のH病院《びやうゐん》ですのよ。それは宗教《しうけう》の病院《びやうゐん》になんか、あなたをお入《い》れしたくなかつたんですけれど、差《さ》し迫《せま》つた事《こと》ではあるし、經濟的《けいざいてき》にどうにもならなかつたもんですからね、全《まつた》く仕方《しかた》のないことでした。』
病人《びやうにん》はK夫人《ふじん》の顏《かほ》の下《した》で、小兒《こども》のやうに顎《あご》で頷《うなづ》いて見《み》せた。上《うへ》の方《はう》へ一束《ひとたば》にした髮《かみ》が、彼女《かのぢよ》を一|層《そう》少女《せうぢよ》らしく痛々《いた/\》しく見《み》せた。
K夫人《ふじん》は病人《びやうにん》の耳《みゝ》もとに口《くち》を寄《よ》せて囁《さゝや》くやうにたづねた。
『遠《とほ》くにゐる方《かた》で、お逢《あ》ひになりたい方《かた》もありませう?』
彼女《かのぢよ》は默《だま》つて首《くび》を振《ふ》つた。その眼《め》には涙《なみだ》がいつぱいに溜《たま》つた。
『でも、知《し》らしてだけは置《お》く方《はう》が好《い》いんですのよ、來《き》ようと思《おも》ふ氣持《きもち》がありさへしたら、すぐに來《き》てくれるかもしれませんからね、ね、電報《でんぱう》を打《う》ちませうね?』
K夫人《ふじん》の言葉《ことば》に、病人《びやうにん》は感謝《かんしや》するやうに、素直《すなほ》に頷《うなづ》いた。
隣室《りんしつ》には、Aの夫人《ふじん》、Cの母堂《ぼだう》、若《わか》いTの夫人《ふじん》等《ら》が集《あつま》つてゐた。病室《びやうしつ》の方《はう》での忙《せは》しさうな醫員《いゐん》や看護婦《かんごふ》の動作《どうさ》、白《しろ》い服《ふく》の擦《すれ》音《おと》、それらは一々|病人《びやうにん》の容態《ようたい》のたゞならぬ事《こと》を、隣室《りんしつ》に傳《つた》へた。
そこへ今朝《けさ》、片山《かたやま》の假《かり》出獄《しゆつごく》を頼《たの》む爲《ため》に辯護士《べんごし》の處《ところ》へ出《で》かけて行《い》つたK氏《し》が戻《もど》つて來《き》た。
疲勞《ひらう》と睡眠《すゐみん》不足《ふそく》とに、K氏《し》は蒼《あを》ざめて髭《ひげ》[#底本では「髮」と誤記]さへ伸《の》ばしてゐた。
『どうも困《こま》つちやつたんです。』
K氏《し》は婦人達《ふじんたち》を見《み》るなりさういつた。
『片山《かたやま》さんのことですか?』
『それもどうも望《のぞ》みはないらしいですがね、それよりも金《かね
前へ
次へ
全5ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
若杉 鳥子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング