》の事《こと》ですよ。先刻《さつき》、僕《ぼく》が此處《ここ》へ入《はひ》らうとすると、例《れい》のあの牧師《ぼくし》上《あが》りの會計《くわいけい》の老爺《おやぢ》が呼《よ》び止《と》めるのです。それから事務所《じむしよ》へ行《い》つて今《いま》までゐたんですが、施療《せれう》は村役場《むらやくば》の證明書《しようめいしよ》のない患者《くわんじや》には絶對《ぜつたい》にできない規定《きてい》だといふんです。だから十|日《か》分《ぶん》の入院料《にふゐんれう》を前金《ぜんきん》で即時《そくじ》に納《をさ》めろといふんです。だが、ないものは拂《はら》へないからそこは宗教《しうけう》の力《ちから》で、何《なん》とか便宜《べんぎ》を計《はか》つてはくれまいかと嘆願《たんぐわん》して見《み》たんですが、彼奴《あいつ》はどうして、規定《きてい》は規定《きてい》だから、證明書《しようめいしよ》もなく金《かね》もないなら、すぐに病人《びやうにん》を連《つ》れてゆけつて酷《ひど》い事《こと》をぬかしやがる、此方《こつち》もつい嚇《かつ》として呶鳴《どな》つて來《き》ちやつたんですが…………』
『だうりで先刻《さつき》から幾度《いくど》も、證明書《しようめいしよ》お持《も》ちですかつて、婦長《ふちやう》さんが顏《かほ》を出《だ》しました。』
『十|日《か》分《ぶん》の入院料《にふゐんれう》を前金《まへきん》で納《をさ》めろですつて、今日《けふ》明日《あす》にも知《し》れない重態《ぢうたい》な病人《びやうにん》だのに――ほんとに、キリスト樣《さま》の病院《びやうゐん》だなんて、何處《どこ》に街《まち》の病院《びやうゐん》と異《ちが》ふ處《ところ》があるんだ。』
 Cの母堂《ぼだう》まで憤慨《ふんがい》した。
 K氏《し》はすぐに、村役場《むらやくば》へ證明書《しようめいしよ》を貰《もら》ひに出《で》て行《い》つたが、失望《しつばう》して歸《かへ》つて來《き》た。證明書《しようめいしよ》なるものが下附《かふ》されるには、十|日《か》かゝるか二十日《はつか》かゝるか、解《わか》らないといふ事《こと》だつた。事態《じたい》はそんなものを待《ま》つてはゐられなかつた。

 その朝《あさ》は、もう病人《びやうにん》の爪先《つまさき》を紫色《むらさきいろ》に染《そ》めて、チアノーゼ[#底本では「チノアーゼ」と誤記]が來《き》てしまつた。
 彼女《かのぢよ》は、生命《いのち》の灯《ひ》の、消《き》える前《まへ》の明《あか》るさで、めづらしくK夫人《ふじん》に話《はな》しかけた。
『Kのおくさん、私《わたし》はいま何《なん》て幸福《かうふく》――』
『え、幸福《かうふく》?』夫人《ふじん》も微笑《びせう》を返《かへ》した。
『私《わたし》はかうして皆《みな》さんに圍《かこ》まれてゐると、氣持《きもち》の好《い》いサナトリウムにでも來《き》てゐるやうですよ、私達《わたしたち》の爲《ため》にも、病院《びやうゐん》やサナトリウムが設備《せつび》されてゐたら、此間《このあひだ》亡《な》くなつたSさんなんか、屹度《きつと》また、健康《けんかう》になれたんでせうにね。』
 Sとは、極度《きよくど》に切《き》り詰《つ》めた生活《せいくわつ》をして、献身的《けんしんてき》に運動《うんどう》をしてゐた、若《わか》い一人《ひとり》の鬪士《とうし》だつた。
『今日《けふ》は脚《あし》から、ずん/\冷《つめ》たくなつてゆくのが自分《じぶん》にも解《わか》るんです。私《わたし》も矢《や》つ張《ぱ》りあのSさんのやうに皆《みな》さんにもうお訣《わか》れです、でもね私《わたし》は今《いま》、大《おほ》きな大《おほ》きな丘陵《きうりよう》のやうに、安心《あんしん》して横《よこ》たはつてゐますのよ。』
 夫人《ふじん》も涙《なみだ》の眼《め》で頷《うなづ》いた。
 それが彼女《かのぢよ》の最期《さいご》の言葉《ことば》だつた。
 證明書《しようめいしよ》とか、寄留屆《きりうとゞけ》とか、入院料《にふゐんれう》とか、さうした鎖《くさり》に取《と》り卷《ま》かれてゐる事《こと》を、彼女《かのぢよ》は少《すこ》しも知《し》らなかつたのである。
 幾回《いくくわい》ものカンフル注射《ちうしや》が施《ほどこ》されて、皆《みな》は彼女《かのぢよ》の身内《みうち》の者《もの》が、一人《ひとり》でも來《き》てくれる事《こと》を待《ま》ち望《のぞ》んでゐたが、電報《でんぱう》を打《う》つたにも拘《かゝは》らず、誰一人《たれひとり》、たうとう來《こ》なかつた。
 秋《あき》の日《ひ》が暮《く》れた。彼女《かのぢよ》の屍體《したい》は白布《しろぬの》に掩《おほ》はれて、その夜《よ》屍室《ししつ》に搬《はこ》ばれた。

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