に応ずる方は、余程解った方でしょう。
 逢うには逢って下さるが、御謙遜が過ぎて皮肉なように受け取れます。尤も此方が神経過敏になっているせいで、先方《さき》でも責任を重んぜられるが故に、無暗にお口をお開きにならぬのでしょう。然し何時お目にかかっても気持ちのよいのは、芸術家、もしくは芸術を解された方で御座いましょう。
 広い世間を歩いて見ると、色々な人に出会いますから、自分というものを全然殺してかからないと、此の商売は出来ません。
 ある旧華族でしたが、御令嬢にお目にかかりたいと申し出でました。すると、『当家の姫君は新聞の材料《ねた》には相成らせられぬ。』とある。今時こんな事を聞いてお芝居のようだと、編輯室の一同で笑いました。
 斯ういうものは執事の老人が時勢を知らぬので、夫人なり令嬢なりは当代の教育も受けられているし、決してそんな事はあるまいと存じます。それから櫻井ちか子(1)女史を訪問した事が御座いましたが、それも大きに失敗談。女史がタイプライターをせらるる間、三十分許り応接間でお待ち申すと、軈《やが》て女史は入ってこられた。
 先ず氷のように冷たい瞳の視線に、若い胸を射られて、ジロジロと見られるのが辛くて、居堪えられませんでしたが、自分は今訪問記者であるという自覚を強くして、問題を提出すると、『自分の答うべき問題ではない。』とある。それでは何でもお考えつきの事を、というと、『私は学校の長としても、一家の主婦としても多忙な身で新聞の種子《たね》など考えている閑暇《ひま》はなかった。』という情けない言葉。全く女史の仰有《おっしゃ》る如く、問題の適不適を考えて持って行くべきでしょうが、此の問題ならあの人は熱をもって話すだろうと思っても、決して然うはゆかぬ場合もあるのですもの。

       我侭者も遂に服従
 余りの侮辱に堪え兼ねて、一層新聞記者なんか止めて、再び父母の懐中へ帰って、服従の日を送ろうとまで思ったのは、此の時許りでは御座いませんでした。今になって見れば、女史に感謝すべき処が大いにあります。
 初めの程は虚栄心に駆らるる事もなく、極く真面目に仕事の事にのみ追われて、一日の中に何物をか得なければ忽ち日刊新聞の事だから、あとからあとからと追われますのみか、編輯上の都合が悪くなるのですが、丁度留守の処へ行ったり、居ても逢えなかったり、引っ越しの後を追って見ても知れなかったりして、短い冬の日は徒労に終わる事もありました。そんな時は、何時も悄然とした姿をして、小石川の宿に帰って行くのでした。
 帰れば何を勉強をする気にもなれず、筆をとる気にもなれず、唯疲れた体躯《からだ》を投げ出して、快い眠りに入る事より他に、何の欲望もありません。労働者の上も偲ばれて、気の毒で堪えませんでした。然し私も一個の労働者です。終日パンを得る為にのみ斯くして過ごします。どう思っても幾ら高く買っても、これが天職の使命のとは思われません。
 社内の事よりも何よりも、反抗するに感応《こたえ》のない、大自然の圧迫は、実に苦しく、家庭や長上の人より受くるもののように余裕がありません。流石の我侭者の私も、是には服従せざるを得ませんでした。

       生活費の不足
 早稲田出身の文学士様さえ、最初の月給は二十円から二十五円と、相場の定った新聞社の事ですから、私は初め見習として十五円を与えられました。電車代は別です。
 自給するようになって、生まれて初めて月給を懐中《ふところ》にした時は、嬉しい気持ちよりも、顧みて一ヶ月の自分の労力が余りに安価に購われ、余りに又小さなる自らの力である事を心細く思いました。
 十五円の中、
     円   銭
   一〇、        食料及び炭,油
      六〇      湯銭
      六〇      郵便
    二、七〇      電車券私用分(三十日)
    一、一〇      小遣い
 と計算立てて見ましたが、此の中から英語の月謝を出そうと思っても出ません。既に郵便の六十銭は不足、一円十銭のお小遣いでは足袋が切れても、下駄が悪くなっても買えません。それに半襟が汚れるとか化粧品を買うとか、臨時費が多く出ますから足りる筈がありません。書物も買えず勉強も出来ない、これでは仕様がないと思って、知り合いの妻君に相談しますと、東京の生活は百円でも出来れば、五円でも出来るという。食料の方から月謝位出そうなものですねと云いました。
 それから直ぐその素人下宿を退いて、神田の裏長屋同然の家へ行きました。元、郷里《くに》の家に居た下男が独身で世帯を持っているのです。其処へ同居してから自炊もして見ました。その男はかなり忠実な人で、夜の中に水を汲み込んだり、薪の用意もして呉れまして、夜の明けぬ中に労働に出て了います。
 雪の日に
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