古鏡
若杉鳥子
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)良夫《やど》のゐる中は兎も角、
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)疊[#底本では「暮」と誤記]
−−
暗い野路を歩いて來た者の眼に、S遊廓の灯は燦爛と二列に輝いてゐた。けれども、少し光りに馴れた者の眼には、莫迦に燈火の乏しい、喪に服してゐるやうな街だつた。處々に深い闇が溜つてゐた。
格子の中では赤い裾が金魚のやうに泳ぎ、ざわめき、黴と酒とアンモニアの醗酵したやうな臭ひがしみじみと浮動してゐる。そこに男の群像が、野犬のやうに喚めき、うろつき或はさゝやき、影繪のやうに交錯する。
その暗い街を、私は腦裡に呼び覺しながら、一人の女の肉體を描いてゐた――そしてふと氣がついて見ると、お房さんはもうずつとその先へ話を進めてゐた。
「ねえ、女つてものは、なんぼうつまらないものだか……」
お房さんは時々さういつて溜息を吐いた。お房さんは、昔ともえやのお女郎だつた。それまでも方々の宿場を渡つて來てゐた。
だが私が知つたのは、隣村の村長の後妻になつてからである。
お房さんはいつも赤い顏をして襷がけで先妻の遺していつた大勢の子供達を對手に、まめまめしく働いてゐた。
その家は川に臨んでゐて、昔から廻船問屋と農業を兼ねてゐたが、交通機關の發達した今では、殆んど店に積荷など見る事がなくなつた。
奥深いがらんとした家の前に、いつも長閑に鷄が餌を拾つてゐた。
「小母さん、花をおくれ」私はよくそんな事をいつて庭先きから入つて行つた。
「酸漿をとるときかんぞ」そんな風に私は毎日遊びに行つた。從つて私の親達もお房さんと親しくなつた。しかしそれから長い年月が經つた。お房さんの事など思ひ出して見るやうな機會さへなくなつてゐた。
夏ももう、衰へて、秋らしい白い風の吹く日だつた。一人の老女が私の家の格子先に立つて、家の中を窺いてゐた。白地の單衣に黒い帶を締めてゐる。物乞ひでもない樣子だつた。老女は眼を患つてゐると見えて、何か少さい紙片を、眼にくつつくやうに近づけて、格子の上の標札と見較べながら、
「百十四番地はこの邊でございませうか」
獨り言のやうにいつてゐた。
「えゝ百十四番地なら此處ですよ」
私は赤ん坊に乳房を含ませたまゝさう答へた。
「片山さんてのは――」
「片山はうちですけ
次へ
全7ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
若杉 鳥子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング