れど……」
 私は赤ん坊を抱いたまゝ立ち上つた。格子の鍵を外さうとして、その時ふと、老女の顏を私は見た。
「まあ、小母さん――」
 重苦しい記憶の塊りそのものゝやうに、私はお房さんの顏を發見したのだつた。お房さんは上へあがると重荷をおろしたといふ風に、私の前へぺちやんこと坐つて、疊[#底本では「暮」と誤記]へ默つて眼をおとしてゐた。この二三年間私の居所を探し歩いてゐたといふのだつた。
「あゝ何からお話をしたらいゝのやら……」
 困憊し切つたといふ風にお房さんは頸を垂れた。それが決して誇張には見えない位、昔その人の持つてゐた色々のもの、意地とか誇りとか意氣とかいふやうなものを沮喪させてしまつてゐた。
「今となつて見ますと、立派な事だと思つて私のして來たことは、みんな餘計な骨折だつたといふ氣がします」
 お房さんの兩親は、まだ小娘のお房さんの手に、幼い妹を一人遺して死んでしまつた。お房さんが躯を賣つたのも、その妹の爲だし、それから借金を負つて轉々したのも、その妹の養育料の爲だつた。にも拘らず今となつては、寄邊のない自分に、妹の一家は、堪え切れない侮辱と虐待をするのだと、お房さんは袖口を眼頭に時々あてゝ、くどくどと訴へた。
「そして今、小母さんは何處に身を置いてゐるんですの」
「やつぱしその妹の家に……ほんとに時には死んだ方がましだと思ふんですよ」
「ぢやあ何故、田舍の方へ小母さんは歸らないんですの、田舍では、譬へ肉親でなくても小母さんの育てた娘さんや息子さん達が、立派になつてゐるでせう」
「それがあなた……田舍にゐられる位なら、何で邪慳で貧乏の妹になんかに手頼らうと思ひますものか」
 わたしは眼の前に白帆のゆるやかに流れるT河を泛べてゐた。その河岸の堤防の際に並んでる、白壁の倉を思ひ出してゐた。それは曾てお房さんが、村長の後妻として棲んでゐた家だつた。それからその邊には珍らしく艶めかしい女房だつたお房さんの、女盛りの姿を描いてゐた。
「商賣の女……と何かにつけていはれるのは辛いから、私はどんなに働きましたことか、朝は星のある中に起き、子育てから田の草取りまでしましたに、誰に一體感謝されたんでせうか、その頃は末の男の子が三つ、その上が五つに七つといふ風です。長男は十四になつてゐましたが、それが今では嫁を貰つて、嫁と二人で私をまるで生みの親の讐だといふやうな仕打ちをします。
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