けれども、もうみどりを押し隠すひまも何もなかった。
 櫛を持って前髪をかいていたみどりは背後から、
『みどり――』
 そう呼びかけられて何気なく振り向こうとした刹那、みどりは火のような叫び声を挙げて突然往来へ飛び出した。
 その時彼女の肩口から、血潮がどんな風にどうだったか、冷静に見ていた人はひとりもない。兎に角みどりは切られながらも全力を挙げて隣家のF楼へ遁げこんだが、刀を提げた彼の男は執拗に女を追った。
 みどりはF楼へ救いを求めたのだったが、もうこうなっては、誰も彼も傍観者だ! [#底本では「!」の後の全角スペースなし]血眼になって追い迫る男を見ては、声を出す事すらできなかった。
 F楼の廊下から中庭の飛び石へ、離室《はなれ》からまた店へ――彼女の遁げめぐる痕々《あとあと》へ生命の最後の赤い点滴が綴られた。
 追われ追われて、彼女は再び往来をめがけて外に突進しようとして、F楼の上がり框《かまち》から地面へ飛び降りた。それがもうみどりの最後の努力だった。
 その時丁度F楼の軒下に瓦斯工事が行われつつあったので、深い溝が掘り下げてあった。運命なのか、地面へ飛び下りるつもりの彼女は、丁度その坑《あな》へどんと俯伏《うつぶ》せに陥《お》ちこんだ時、如何《どう》とも全力が尽きてしまった。
 この時男は背後から滅多突きに突いた。
『ああこれで気持ちがさっぱりした』
 彼はこういって嘯きながら神妙に捕らわれてまた幾度目かの入獄をした。
 それが、ある春の宵の出来事である。

      2 無理心中

 春といえば……それも四月頃の一事件だった……と私は思い出す。
 風邪をひいて寝ていた私は、火点《ひとも》し頃になってようやく目をさました。周囲を見廻すと人がいないし、外に出て見ても変に往来は人通りがなく、何処の家も大変静粛であった。
 近所に何事か起こったらしい――すぐそう感じられる位イヤに静かだった。
 すると、ある者がそそくさと向こうから帰って来たので、私はその人を捉えて訊いた。
『何処かで何事かあった?』
『S楼で心中があったんだ、無理心中が』
『男も女も死んじゃった?』
『男は死にもどうもしやしない、床の中へ潜りこんで小さくなって慄えてやがった』
『女の方は? 小父《おじ》さん……』
『女の方は――ったって、首も何もくっついちゃあいないといって宣《い》いだろう、ぼん
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