う。」
 とおっしゃいますと、太子《たいし》は、
「わたくしはむかしシナの南岳《なんがく》という山に住《す》んでいて、長年《ながねん》仏《ほとけ》の道《みち》を修行《しゅぎょう》いたしました。こんど日本《にほん》の国《くに》に生《う》まれて来《く》ることになりましたから、むかしの通《とお》りまたお経《きょう》を読《よ》んでみたいと思《おも》います。」
 とお答《こた》えになりました。
 天皇《てんのう》ははじめて、なるほど太子《たいし》はそういう貴《とうと》い人の生《う》まれかわりであったのかとお悟《さと》りになって、お経《きょう》を太子《たいし》に下《くだ》さいました。
 太子《たいし》が八|歳《さい》の年《とし》でした。新羅《しらぎ》の国《くに》から仏《ほとけ》さまのお姿《すがた》を刻《きざ》んだ像《ぞう》を献上《けんじょう》いたしました。その使者《ししゃ》たちが旅館《りょかん》に泊《とま》っている様子《ようす》を見《み》ようとお思《おも》いになって、太子《たいし》はわざと貧乏人《びんぼうにん》の子供《こども》のようなぼろぼろなお姿《すがた》で、町《まち》の子供《こども》たちの中に交じってお行きになりました。すると新羅《しらぎ》の使者《ししゃ》の中に日羅《にちら》という貴《とうと》い坊《ぼう》さんがおりましたが、きたない童《わらべ》たちの中に太子《たいし》のおいでになるのを目ざとく見付《みつ》けて、
「神《かみ》の子がおいでになる。」
 といって、太子《たいし》に近《ちか》づこうといたしました。太子《たいし》はびっくりして逃《に》げて行こうとなさいました。日羅《にちら》はあわてて履《くつ》もはかず駆《か》け出《だ》してお後《あと》を追《お》いかけました。そして太子《たいし》の前《まえ》の地《じ》びたにぺったりひざをついたままうやうやしく、
「敬礼救世《きょうらいぐぜ》観世音菩薩《かんぜおんぼさつ》。妙教流通《みょうきょうるづう》東方日本国《とうほうにっぽんこく》。」
 と申《もう》しますと、日羅《にちら》の体《からだ》から光明《こうみょう》がかっと射《さ》しました。そして太子《たいし》の額《ひたい》からは白《しろ》い光《ひかり》がきらりと射《さ》しました。日羅《にちら》の言《い》った言葉《ことば》は、人間《にんげん》の世《よ》の苦《くる》しみを救《すく》って下《
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