、あの時《とき》の小さな坊《ぼう》さんと大《おお》きなひげ男《おとこ》でした。そこで話《はなし》のついでに、田村麻呂《たむらまろ》はお寺《てら》の和尚《おしょう》さんに向《む》かって、奥州《おうしゅう》の戦《いくさ》ではこれこれこういうことがあったと話《はな》しますと、和尚《おしょう》さんは横手《よこで》を打《う》って、
「ははあ、それでわかりました。するとその小坊主《こぼうず》というのは勝軍地蔵《しょうぐんじぞう》さまで、大《おお》きなひげ男《おとこ》と見《み》えたのは勝敵毘沙門天《しょうてきびしゃもんてん》に違《ちが》いありません。どちらもこの御堂《おどう》にお鎮《しず》まりになっていらっしゃいます。」
 といいました。田村麻呂《たむらまろ》は不思議《ふしぎ》に思《おも》って、
「ではさっそく、その地蔵《じぞう》さまと毘沙門《びしゃもん》さまにお参《まい》りをして来《こ》よう。」
 といって、本堂《ほんどう》に祀《まつ》ってある勝軍地蔵《しょうぐんじぞう》と勝敵毘沙門天《しょうてきびしゃもんてん》のお像《ぞう》の前《まえ》に行ってみますと、どうでしょう。地蔵《じぞう》さまと毘沙門《びしゃもん》さまのお像《ぞう》の、頭《あたま》にも胸《むね》にも、手足にも、肩先《かたさき》にも、幾箇所《いくかしょ》となく刀《かたな》きずや矢《や》きずがあって、おまけにお足《あし》にはこてこてと泥《どろ》さえついておりました。
 田村麻呂《たむらまろ》は今更《いまさら》仏《ほとけ》さまの御利益《ごりやく》のあらたかなのにつくづく感心《かんしん》して、天子《てんし》さまから頂《いただ》いたお金《かね》を残《のこ》らず和尚《おしょう》さんにあずけて、お寺《てら》をりっぱにこしらえました。今《いま》の清水寺《きよみずでら》があれほどの大《おお》きなお寺《てら》になったのは、田村麻呂《たむらまろ》の時《とき》から、そうなったものだということです。
 田村麻呂《たむらまろ》はその後《のち》鈴鹿山《すずかやま》の鬼《おに》を退治《たいじ》したり、藤原仲成《ふじわらのなかなり》というものの謀反《むほん》を平《たい》らげたり、いろいろの手柄《てがら》を立《た》てて、日本一《にほんいち》の将軍《しょうぐん》とあがめられましたが、五十四の年《とし》に病気《びょうき》で亡《な》くなりました。けれどもこれほどのえらい将軍《しょうぐん》をただ葬《ほうむ》ってしまうのは惜《お》しいので、そのなきがらに鎧《よろい》を着《き》せ、兜《かぶと》をかぶせたまま、棺《ひつぎ》の中に立《た》たせました。そしてそれを都《みやこ》の四方《しほう》を見晴《みは》らす東山《ひがしやま》のてっぺんに持《も》って行って、御所《ごしょ》の方《ほう》に顔《かお》のむくように立《た》てて埋《うず》めました。これが将軍塚《しょうぐんづか》の起《お》こりでございます。



底本:「日本の英雄伝説」講談社学術文庫、講談社
   1983(昭和58)年6月10日第1刷発行
入力:鈴木厚司
校正:今井忠夫
2004年1月6日作成
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