鎮西八郎
楠山正雄
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)八幡太郎義家《はちまんたろうよしいえ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)三|代《だい》め
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(例)[#「年寄《としよ》り」は底本では「年寄《としより》り」]
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一
八幡太郎義家《はちまんたろうよしいえ》から三|代《だい》めの源氏《げんじ》の大将《たいしょう》を六条判官為義《ろくじょうほうがんためよし》といいました。為義《ためよし》はたいそうな子福者《こぶくしゃ》で、男《おとこ》の子供《こども》だけでも十四五|人《にん》もありました。そのうちで一|番《ばん》上のにいさんの義朝《よしとも》は、頼朝《よりとも》や義経《よしつね》のおとうさんに当《あ》たる人で、なかなか強《つよ》い大将《たいしょう》でしたけれど、それよりももっと強《つよ》い、それこそ先祖《せんぞ》の八幡太郎《はちまんたろう》に負《ま》けないほどの強《つよ》い大将《たいしょう》というのは、八|男《なん》の鎮西八郎為朝《ちんぜいはちろうためとも》でした。
なぜ為朝《ためとも》を鎮西八郎《ちんぜいはちろう》というかといいますと、それはこういうわけです。いったいこの為朝《ためとも》は子供《こども》のうちからほかの兄弟《きょうだい》たちとは一人《ひとり》ちがって、体《からだ》もずっと大きいし、力《ちから》が強《つよ》くって、勇気《ゆうき》があって、世《よ》の中に何《なに》一つこわいというもののない少年《しょうねん》でした。それに生《う》まれつき弓《ゆみ》を射《い》ることがたいそう上手《じょうず》で、それこそ八幡太郎《はちまんたろう》の生《う》まれかわりだといわれるほどでした。それどころか、八幡太郎《はちまんたろう》は弓《ゆみ》の名人《めいじん》でしたけれど、人並《ひとな》みとちがった強《つよ》い弓《ゆみ》を引《ひ》くということはなかったのですが、為朝《ためとも》は背《せい》の高《たか》さが七|尺《しゃく》もあって、力《ちから》の強《つよ》い上に、腕《うで》が人並《ひとな》みより長《なが》く、とりわけ左《ひだり》の手が右《みぎ》の手より四|寸《すん》も長《なが》かったものですから、並《な》みの二|倍《ばい》もある強《つよ》い弓《ゆみ》に、二|倍《ばい》もある長《なが》い矢《や》をつがえては引《ひ》いたのです。ですから為朝《ためとも》の射《い》る矢《や》は、並《な》みの人の矢《や》がやっと一|町《ちょう》か二|町《ちょう》走《はし》るところを五|町《ちょう》も六|町《ちょう》の先《さき》まで飛《と》んで行《い》き、ただ一|矢《や》で敵《てき》の三|人《にん》や四|人《にん》手負《てお》わせないことはないくらいでした。
こんなふうですから、子供《こども》の時《とき》から強《つよ》くって、けんかをしても、ほかの兄弟《きょうだい》たちはみんな負《ま》かされてしまいました。兄弟《きょうだい》たちは為朝《ためとも》が半分《はんぶん》はこわいし、半分《はんぶん》はにくらしがって、何《なに》かにつけてはおとうさんの為義《ためよし》の所《ところ》へ行っては、八郎《はちろう》がいけない、いけないというものですから、為義《ためよし》もうるさがって、度々《たびたび》為朝《ためとも》をしかりました。いくらしかられても為朝《ためとも》は平気《へいき》で、あいかわらず、いたずらばかりするものですから、為義《ためよし》も困《こま》りきって、ある時《とき》、
「お前《まえ》のような乱暴者《らんぼうもの》を都《みやこ》へ置《お》くと、今《いま》にどんなことをしでかすかわからない。今日《きょう》からどこへでも好《す》きな所《ところ》へ行ってしまえ。」
といって、うちから追《お》い出《だ》してしまいました。その時《とき》為朝《ためとも》はやっと十三になったばかりでした。
うちから追《お》い出《だ》されても、為朝《ためとも》はいっこう困《こま》った顔《かお》もしないで、
「いじのわるいにいさんたちや、小言《こごと》ばかりいうおとうさんなんか、そばにいない方《ほう》がいい。ああ、これでのうのうした。」
と心《こころ》の中で思《おも》って、家来《けらい》もつれずたった一人《ひとり》、どこというあてもなく運《うん》だめしに出かけました。
二
国々《くにぐに》を方々《ほうぼう》めぐりあるいて、為朝《ためとも》はとうとう九州《きゅうしゅう》に渡《わた》りました。その時分《じぶん》九州《きゅうしゅう》のうちには、たくさんの大名《だいみょう》があって、めいめい国《くに》を分《わ》け取《ど》りにしていました。そしてそのてんでんの国《くに》にいかめしいお城《しろ》をかまえて、少《すこ》しでも領分《りょうぶん》をひろめようというので、お隣同士《となりどうし》始終《しじゅう》戦争《せんそう》ばかりしあっていました。
為朝《ためとも》は九州《きゅうしゅう》に下《くだ》ると、さっそく肥後《ひご》の国《くに》に根城《ねじろ》を定《さだ》め、阿蘇忠国《あそのただくに》という大名《だいみょう》を家来《けらい》にして、自分勝手《じぶんがって》に九州《きゅうしゅう》の総追捕使《そうついほし》という役《やく》になって、九州《きゅうしゅう》の大名《だいみょう》を残《のこ》らず打《う》ち従《したが》えようとしました。九州《きゅうしゅう》の総追捕使《そうついほし》というのは、九州《きゅうしゅう》の総督《そうとく》という意味《いみ》なのです。すると外《ほか》の大名《だいみょう》たちは、これも半分《はんぶん》はこわいし、半分《はんぶん》はいまいましがって、
「為朝《ためとも》は総追捕使《そうついほし》だなんぞといって、いばっているが、いったいだれからゆるされたのだ。生意気《なまいき》な小僧《こぞう》じゃないか。」
といいいい、てんでんのお城《しろ》に立《た》てこもって、為朝《ためとも》が攻《せ》めて来《き》たら、あべこべにたたき伏《ふ》せてやろうと待《ま》ちかまえていました。
為朝《ためとも》は聞《き》くと笑《わら》って、
「はッは。たかが九州《きゅうしゅう》の小大名《こだいみょう》のくせに、ばかなやつらだ。いったいおれを何《なん》だと思《おも》っているのだろう。子供《こども》だって、りっぱな源氏《げんじ》の本家《ほんけ》の八|男《なん》じゃないか。」
こういって、すぐ阿蘇忠国《あそのただくに》を案内者《あんないしゃ》にして、わずかな味方《みかた》の兵《へい》を連《つ》れたなり、九州《きゅうしゅう》の城《しろ》という城《しろ》を片《かた》っぱしからめぐり歩《ある》いて、十三の年《とし》の春《はる》から十五の年《とし》の秋《あき》まで、大戦《おおいくさ》だけでも二十|何度《なんど》、その外《ほか》小《ちい》さな戦《いくさ》は数《かず》のしれないほどやって、攻《せ》め落《お》とした城《しろ》の数《かず》だけでも何《なん》十|箇所《かしょ》というくらいでした。それで三|年《ねん》めの末《すえ》にはとうとう九州《きゅうしゅう》残《のこ》らず打《う》ち従《したが》えて、こんどこそほんとうに総追捕使《そうついほし》になってしまいました。
すると為朝《ためとも》に打《う》ち従《したが》えられた大名《だいみょう》たちは、うわべは降参《こうさん》した体《てい》に見《み》せかけながら、腹《はら》の中ではくやしくってくやしくってなりませんでした。そこでそっと都《みやこ》に使《つか》いを立《た》てて、為朝《ためとも》が九州《きゅうしゅう》に来《き》てさんざん乱暴《らんぼう》を働《はたら》いたこと、天子《てんし》さまのお許《ゆる》しも受《う》けないで、自分勝手《じぶんかって》に九州《きゅうしゅう》の総追捕使《そうついほし》になったことなどをくわしく手紙《てがみ》に書《か》き、その上に為朝《ためとも》の悪口《わるくち》を有《あ》ること無《な》いことたくさんにならべて、どうか一|日《にち》も早《はや》く為朝《ためとも》をつかまえて、九州《きゅうしゅう》の人民《じんみん》の難儀《なんぎ》をお救《すく》い下《くだ》さいと申《もう》し上《あ》げました。
天子《てんし》さまはたいそうお驚《おどろ》きになって、さっそく役人《やくにん》をやって為朝《ためとも》をお呼《よ》び返《かえ》しになりました。けれども為朝《ためとも》は、
「きっとこれはだれかが天子《てんし》さまに讒言《ざんげん》したにちがいない。天子《てんし》さまには、間違《まちが》いだからといって、よく申《もう》し上《あ》げてくれ。」
といって、役人《やくにん》を追《お》い返《かえ》してしまいました。
為朝《ためとも》がいうことをきかないので、天子《てんし》さまはお怒《おこ》りになって、子供《こども》の悪《わる》いのは親《おや》のせいだからというので、おとうさんの為義《ためよし》を免職《めんしょく》して、隠居《いんきょ》させておしまいになりました。
為朝《ためとも》は、おとうさんが自分《じぶん》の代《か》わりに罰《ばつ》を受《う》けたということを聞《き》きますと、はじめてびっくりしました。
「おれは天子《てんし》さまのお罰《ばつ》をうけることをこわがって、都《みやこ》へ行かないのではない。それを自分《じぶん》が行かないために、年《とし》を取《と》られたおとうさんがおとがめをうけるというのはお気《き》の毒《どく》なことだ。そういうわけなら一|日《にち》も早《はや》く都《みやこ》に上《のぼ》って、おとうさんの代《か》わりにどんなおしおきでも受《う》けることにしよう。」
こういって為朝《ためとも》はさっそく今《いま》の楽《たの》しい身分《みぶん》をぽんと棄《す》てて、前《まえ》に下《くだ》って来《き》た時《とき》と同様《どうよう》、家来《けらい》も連《つ》れずたった一人《ひとり》でひょっこり都《みやこ》へ帰《かえ》って行こうとしました。ところが長《なが》い間《あいだ》為朝《ためとも》になついて、影身《かげみ》にそうように片時《かたとき》もそばをはなれない二十八|騎《き》の武士《ぶし》が、どうしてもお供《とも》について行きたいといってききませんので、為朝《ためとも》も困《こま》って、これだけはいっしょに連《つ》れて都《みやこ》に上《のぼ》ることにしました。
こういうわけで九州《きゅうしゅう》から為朝《ためとも》について来《き》た家来《けらい》は二十八|騎《き》だけでしたが、どうしてもお供《とも》ができなければ、せめて途中《とちゅう》までお見送《みおく》りがしたいといって、いくら断《ことわ》っても、断《ことわ》っても、どこまでも、どこまでも、ぞろぞろついてくる家来《けらい》たちの数《かず》はそれはそれはおびただしいものでした。為朝《ためとも》は力《ちから》が強《つよ》いばかりでなく、おとうさんに孝心《こうしん》ぶかいと同様《どうよう》、だれに向《む》かっても情《なさ》けぶかい、心《こころ》のやさしい人でしたから、三|年《ねん》いるうちにこんなに大勢《おおぜい》の人から慕《した》われて、ほんとうに九州《きゅうしゅう》の王《おう》さま同様《どうよう》だったのです。それでだれいうとなく、為朝《ためとも》のことを鎮西八郎《ちんぜいはちろう》と呼《よ》ぶようになりました。鎮西《ちんぜい》というのは西《にし》の国《くに》ということで、九州《きゅうしゅう》の異名《いみょう》でございます。
三
さて為朝《ためとも》は一|日《にち》も早《はや》くおとうさんを窮屈《きゅうくつ》なおしこめから出《だ》してあげたいと思《おも》って、急《いそ》いで都《みやこ》に上《のぼ》りました。ところが上《のぼ》ってみておどろいたことには、都《みやこ》の中はざわざわ物騒《ものさわ》がしくって、今《いま》に戦争《せんそう》がはじまるのだといって、人
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