しわか》はもう十四、五になっていました。
二
そのころ京都《きょうと》の北《きた》の比叡山《ひえいざん》に、弁慶《べんけい》という強《つよ》い坊《ぼう》さんがありました。この弁慶《べんけい》は生《う》まれる前《まえ》おかあさんのおなかに十八|箇月《かげつ》もいたので、生《う》まれるともう三つぐらいの子供《こども》の大きさがあって、髪《かみ》の毛《け》がもじゃもじゃ生《は》えて、大きな歯《は》がにょきんと出ていました。そしてずんずん口をききました。
「ああ、明《あか》るい。」
はじめておかあさんのおなかからとび出《だ》したとき、こういっていきなりちょこちょこと歩《ある》き出《だ》したそうです。おとうさんは気味《きみ》をわるがって、大きくなるとすぐ、お寺《てら》へやってしまいました。お寺《てら》へやられても、生《う》まれつきたいそう気《き》のあらい上に、この上なく力《ちから》が強《つよ》いので、すこし気《き》にくわないことがあると、ほかの坊《ぼう》さんをぶちました。ぶたれて死《し》んだ坊《ぼう》さんもありました。みんなは弁慶《べんけい》というと、ふるえ上《あ》がってこわがっていました。
そのうちに比叡山《ひえいざん》の西塔《さいとう》の武蔵坊《むさしぼう》というお寺《てら》の坊《ぼう》さんが亡《な》くなりますと、弁慶《べんけい》は勝手《かって》にそこに入《はい》りこんで、西塔《さいとう》の武蔵坊弁慶《むさしぼうべんけい》と名《な》のりました。
ある時《とき》弁慶《べんけい》はおもいました。
「宝《たから》はなんでも千という数《かず》をそろえて持《も》つものだそうた。奥州《おうしゅう》の秀衡《ひでひら》はいい馬《うま》を千|疋《びき》と、鎧《よろい》を千りょうそろえて持《も》っている。九州《きゅうしゅう》の松浦《まつうら》の太夫《たゆう》は弓《ゆみ》を千ちょうとうつぼを千|本《ぼん》そろえてもっている。おれも刀《かたな》を千|本《ぼん》そろえよう。都《みやこ》へ出て集《あつ》めたら、千|本《ぼん》くらいわけなくできる。」
こう考《かんが》えて、弁慶《べんけい》は黒糸《くろいと》おどしの鎧《よろい》の上に墨《すみ》ぞめの衣《ころも》を着《き》て、白《しろ》い頭巾《ずきん》をかぶり、なぎなたを杖《つえ》について、毎晩《まいばん》五条《ごじょう》の橋《は
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