ようとしておいでの時《とき》、ほかの人間《にんげん》の命《いのち》を取《と》るというのは、仏《ほとけ》さまのおぼしめしにもかなわないでしょう。そうすると、せっかく助《たす》かる御病人《ごびょうにん》が、かえって助《たす》からなくなるまいものでもない。」
こう和尚《おしょう》さんにいわれると、さすがに傲慢《ごうまん》な悪右衛門《あくうえもん》も、少《すこ》し勇気《ゆうき》がくじけました。和尚《おしょう》さんはここぞと、
「しかし、ただ助《たす》けるというのが業腹《ごうはら》にお思《おも》いなら、こうしましょう。この男を今日《きょう》から侍《さむらい》をやめさせて、わたしの弟子《でし》にして、出家《しゅっけ》させます。それで堪忍《かんにん》しておやりなさい。」
といいました。
悪右衛門《あくうえもん》もとうとう和尚《おしょう》さんに言《い》い伏《ふ》せられて、いったん虜《とりこ》にした保名《やすな》を放《はな》してやりました。
やがて悪右衛門《あくうえもん》の主従《しゅじゅう》は和尚《おしょう》さんに別《わか》れを告《つ》げて、また森《もり》の中にすっかり姿《すがた》が見《み》えなくなりますと、和尚《おしょう》さんは、その時《とき》まで、ぼんやり夢《ゆめ》をみたように座《すわ》っていた保名《やすな》に向《む》かって、
「さあ、乱暴者《らんぼうもの》どもが行ってしまいました。また見《み》つからないうちに、そっと向《む》こうの道《みち》を通《とお》って逃《に》げていらっしゃい。わたくしはさっきあなたに助《たす》けて頂《いただ》いた、この森《もり》の狐《きつね》です。御恩《ごおん》は一生《いっしょう》忘《わす》れません。」
こういうが早《はや》いか、和尚《おしょう》さんはもうまた元《もと》の狐《きつね》の姿《すがた》になって、しっぽを振《ふ》りながら、悪右衛門《あくうえもん》たちが帰《かえ》っていった方角《ほうがく》とは違《ちが》った向《む》こうの森《もり》の中の道《みち》へ入《はい》っていきました。それはさも、自分《じぶん》について来《こ》いというようでした。保名《やすな》はいよいよ夢《ゆめ》の中で夢《ゆめ》を見《み》たような心持《こころも》ちがしながら、うかうかとその後《あと》についていきました。
二
もう日がとっぷり暮《く》れて、夜《よる》になりました。暗《くら》い樹《き》の間《あいだ》から、吹《ふ》けば飛《と》びそうに薄《うす》い三日月《みかづき》がきらきらと光《ひか》って見《み》えていました。保名《やすな》はいつの間《ま》にか狐《きつね》の行方《ゆくえ》を見失《みうしな》ってしまって、心細《こころぼそ》く思《おも》いながら、森《もり》の中の道《みち》をとぼとぼと歩《ある》いて行きました。しばらく行くと、やがて森《もり》が尽《つ》きて、山と山との間《あいだ》の、谷《たに》あいのような所《ところ》へ出ました。体中《からだじゅう》にうけた傷《きず》がずきんずきん痛《いた》みますし、もう疲《つか》れきってのどが渇《かわ》いてたまりませんので、水《みず》があるかと思《おも》って谷《たに》へずんずん下《お》りていきますと、はるかの谷底《たにぞこ》に一《ひと》すじ、白い布《ぬの》をのべたような清水《しみず》が流《なが》れていて、月《つき》の光《ひかり》がほのかに当《あ》たっていました。その光《ひかり》の中にかすかに人らしい姿《すがた》が見《み》えたので、保名《やすな》はほっとして、痛《いた》む足《あし》をひきずりひきずり、岩角《いわかど》をたどって下《お》りて行きますと、それはこんな寂《さび》しい谷《たに》あいに似《に》もつかない十六七のかわいらしい少女《おとめ》が、谷川《たにがわ》で着物《きもの》を洗《あら》っているのでした。少女《おとめ》は保名《やすな》の姿《すがた》を見《み》るとびっくりして、危《あや》うく踏《ふ》まえていた岩《いわ》を踏《ふ》みはずしそうにしました。それから保名《やすな》の血《ち》だらけになった手足《てあし》と、ぼろぼろに裂《さ》けた着物《きもの》と、それに何《なに》よりも死人《しにん》のように青《あお》ざめた顔《かお》を見《み》ると、思《おも》わずあっとさけび声《ごえ》をたてました。保名《やすな》は気《き》の毒《どく》そうに、
「驚《おどろ》いてはいけません。わたしはけっして怪《あや》しいものではありません。大ぜいの悪者《わるもの》に追《お》われて、こんなにけがをしたのです。どうぞ水《みず》を一|杯《ぱい》飲《の》ませて下《くだ》さい。のどが渇《かわ》いて、苦《くる》しくってたまりません。」
といいました。
娘《むすめ》はそう聞《き》くと大《たい》そう気《き》の毒《どく》がって、谷川《たにがわ》の水《みず》をしゃくって、保名《やすな》に飲《の》ませてやりました。そしてそのみじめらしい様子《ようす》をつくづくとながめながら、
「まあ、そんな痛々《いたいた》しい御様子《ごようす》では、これからどこへいらっしゃろうといっても、途中《とちゅう》で歩《ある》けなくなるにきまっています。むさくるしい家《いえ》で、おいやでしょうけれど、ともかくわたくしのうちへいらしって、傷《きず》のお手当《てあて》をなさいまし。」
といいました。
保名《やすな》は大《たい》そうよろこんで、娘《むすめ》の後《あと》についてその家《いえ》へ行きました。それは山《やま》の陰《かげ》になった寂《さび》しい所《ところ》で、うちには娘《むすめ》のほかにだれも人はおりませんでした。この娘《むすめ》は親《おや》も兄弟《きょうだい》もない、ほんとうの一人《ひとり》ぼっちで、この寂《さび》しい森《もり》の奥《おく》に住《す》んでいるのでした。
その明《あ》くる日|保名《やすな》は目が覚《さ》めてみると、昨日《きのう》うけた体《からだ》の傷《きず》が一晩《ひとばん》のうちにひどい熱《ねつ》をもって、はれ上《あ》がっていました。体中《からだじゅう》、もうそれは搾木《しめぎ》にかけられたようにぎりぎり痛《いた》んで、立《た》つことも座《すわ》ることもできません。そこで保名《やすな》は心《こころ》のうちには気《き》の毒《どく》に思《おも》いながら、毎日《まいにち》あおむけになって寝《ね》たまま、親切《しんせつ》な娘《むすめ》の世話《せわ》に体《からだ》をまかしておくほかはありませんでした。
保名《やすな》の体《からだ》が元《もと》どおりになるにはなかなか手間《てま》がかかりました。娘《むすめ》はそれでも、毎日《まいにち》ちっとも飽《あ》きずに、親身《しんみ》の兄弟《きょうだい》の世話《せわ》をするように親切《しんせつ》に世話《せわ》をしました。保名《やすな》の体《からだ》がすっかりよくなって、立《た》って外《そと》へ出歩《である》くことができるようになった時分《じぶん》には、もうとうに秋《あき》は過《す》ぎて、冬《ふゆ》の半《なか》ばになりました。森《もり》の奥《おく》の住《す》まいには、毎日《まいにち》木枯《こが》らしが吹《ふ》いて、木《こ》の葉《は》も落《お》ちつくすと、やがて深《ふか》い雪《ゆき》が森《もり》をも谷《たに》をもうずめつくすようになりました。保名《やすな》はそのままいっしょに雪《ゆき》の中にうずめられて、森《もり》を出ることができないでいました。そのうち雪《ゆき》がそろそろ解《と》けはじめて、時々《ときどき》は森《もり》の中に小鳥《ことり》の声《こえ》が聞《き》こえるようになって、春《はる》が近《ちか》づいてきました。保名《やすな》は毎日《まいにち》親切《しんせつ》な娘《むすめ》の世話《せわ》になっているうち、だんだんうちのことを忘《わす》れるようになりました。それからまた一|年《ねん》たって、二|度《ど》めの春《はる》が訪《おとず》れてくる時分《じぶん》には、保名《やすな》と娘《むすめ》の間《あいだ》にかわいらしい男の子が一人《ひとり》生《う》まれていました。このごろでは保名《やすな》はすっかりもとの侍《さむらい》の身分《みぶん》を忘《わす》れて、朝《あさ》早《はや》くから日の暮《く》れるまで、家《いえ》のうしろの小《ちい》さな畑《はたけ》へ出《で》てはお百姓《ひゃくしょう》の仕事《しごと》をしていました。お上《かみ》さんの葛《くず》の葉《は》は、子供《こども》の世話《せわ》をする合間《あいま》には、機《はた》に向《む》かって、夫《おっと》や子供《こども》の着物《きもの》を織《お》っていました。夕方《ゆうがた》になると、保名《やすな》が畑《はたけ》から抜《ぬ》いて来《き》た新《あたら》しい野菜《やさい》や、仕事《しごと》の合間《あいま》に森《もり》で取《と》った小鳥《ことり》をぶら下《さ》げて帰《かえ》って来《き》ますと、葛《くず》の葉《は》は子供《こども》を抱《だ》いてにっこり笑《わら》いながら出て来《き》て、夫《おっと》を迎《むか》えました。
こういう楽《たの》しい、平和《へいわ》な月日《つきひ》を送《おく》り迎《むか》えするうちに、今年《ことし》は子供《こども》がもう七つになりました。それはやはり野面《のづら》にはぎやすすきの咲《さ》き乱《みだ》れた秋《あき》の半《なか》ばのことでした。ある日いつものとおり保名《やすな》は畑《はたけ》に出て、葛《くず》の葉《は》は一人《ひとり》寂《さび》しく留守居《るすい》をしていました。お天気《てんき》がいいので子供《こども》も野《の》へとんぼを取《と》りに行ったまま、遊《あそ》びほおけていつまでも帰《かえ》って来《き》ませんでした。葛《くず》の葉《は》はいつものとおり機《はた》に向《む》かって、とんからりこ、とんからりこ、機《はた》を織《お》りながら、少《すこ》し疲《つか》れたので、手を休《やす》めて、うっとり庭《にわ》をながめました。もう薄《うす》れかけた秋《あき》の夕日《ゆうひ》の中に、白い菊《きく》の花《はな》がほのかな香《かお》りをたてていました。葛《くず》の葉《は》は何《なん》となくうるんだ寂《さび》しい気持《きも》ちになって、我《われ》を忘《わす》れてうっかりと魂《たましい》が抜《ぬ》け出《だ》したようになっていました。その時《とき》外《そと》から、
「かあちゃん、かあちゃん。」
と呼《よ》びながら、遊《あそ》び疲《つか》れた子供《こども》が駆《か》けて帰《かえ》って来《き》ました。うっとりしていて、その声《こえ》にも気《き》がつかなかったとみえて、葛《くず》の葉《は》が返事《へんじ》をしないので、不思議《ふしぎ》に思《おも》って子供《こども》はそっと庭《にわ》に入《はい》ってみますと、いつものように機《はた》に向《む》かっている母親《ははおや》の姿《すがた》は見《み》えましたが、機《はた》を織《お》る手は休《やす》めて、機《はた》の上《うえ》につっぷしたまま、うとうとうたた寝《ね》をしていました。ふと見《み》るとその顔《かお》は、人間《にんげん》ではなくって、たしかに狐《きつね》の顔《かお》でした。子供《こども》はびっくりして、もう一|度《ど》見直《みなお》しましたが、やはりまぎれもない狐《きつね》の顔《かお》でした。子供《こども》は「きゃっ。」と、思《おも》わずけたたましいさけび声《ごえ》を上《あ》げたなり、あとをも見《み》ずに外《そと》へ駆《か》け出《だ》しました。
子供《こども》のさけび声《ごえ》に、はっとして葛《くず》の葉《は》は目を覚《さ》ましました。そしてちょいとうたた寝《ね》をした間《ま》に、どういうことが起《お》こったか、残《のこ》らず知《し》ってしまいました。ほんとうにこの葛《くず》の葉《は》は人間《にんげん》の女ではなくって、あの時《とき》保名《やすな》に助《たす》けられた若《わか》い牝狐《めぎつね》だったのです。狐《きつね》は今日《きょう》までかくしていた自分《じぶん》の醜《みにく》い、ほんとうの姿《すがた》を
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