こえた。マチアはふるえていた。わたしもふるえていた。
「寒いね」とかれはささやいた。わたしたちをふるえさせるのは寒さのためだけであったろうか。
やがて往来《おうらい》に足音がした。ボブは帰って来た。わたしの運命が決められた。胴服《どうふく》を着て油じみたぼうしをかぶったぶこつな顔つきの船乗りが、ボブといっしょに来た。
「これがぼくの兄貴《あにき》だ」とボブが言った。「きみたちを船に乗せて行ってくれるはずだ。そこでぼくはここでお別《わか》れとしよう。だれもぼくがきみをここへ連《つ》れて来たことを知るはずがないよ」
わたしはボブに礼を言おうとしたが、かれは手短に打ち切った。わたしはかれの手をにぎった。
「それは言いっこなしだ」とかれは軽く言った。「きみたち二人は、このあいだの晩《ばん》ぼくを助けてくれた。いいことをすればいい報《むく》いがあるさ。それでぼくもマチアの友だちを助けてあげることができたのだから、自分でもゆかいだ」
わたしたちはボブの兄弟のあとについて、いくつか折《お》れ曲がった静《しず》かな通りを通って、波止場《はとば》に着いた。かれはひと言も口をきくことなしに、一そうの小さい帆船《はんせん》を指さした。二、三分でわたしたちは甲板《かんぱん》の上にいた。かれはわたしたちに下の小さな船室にはいれと言った。
「二時間すれば船を出す」とかれは言った。「そこにはいって、音のしないようにしておいで」
でもわたしたちはもうふるえてはいなかった。わたしたちはまっ暗な中で肩《かた》をならべてすわっていた。
白鳥号
ボブの兄弟が立ち去ったあと、しばらくのあいだわたしたちは、ただ風の音と、キールにぶつかる波の音を聞くだけであった。やがて足音が上の甲板《かんぱん》に聞こえて、滑車《かっしゃ》が回りだした。帆《ほ》が上げられて、やがて急に一方にかしいだ。動き始めたと思うまもなく、船はあらい海の上へぐんぐんすべり出した。
「マチア、気のどくだね」とわたしはかれの手を取った。
「かまわないよ。助かったのだから」とかれは言った。「船に酔《よ》ったってなんだ」
そのあくる日、わたしは船室と甲板《かんぱん》の間に時間を過《す》ごした。マチアは一人うっちゃっておいてもらいたがった。とうとう船長が、あれがバルフルールだと指さしてくれたとき、わたしは急いで船室に下りて、かれにいい知らせを伝《つた》えようとした。
もう、バルフルールに着いたときは、夕方おそくなっていたので、ボブの兄弟はわたしたちによければ今夜|一晩《ひとばん》船の中でねて行ってもいいと言った。
「おまえさんがまたイギリスへ帰りたいと思うときには」とそのあくる朝、わたしたちがさようならを言って、かれの骨折《ほねお》りを感謝《かんしゃ》すると、こう言った。「エクリップス号は毎火曜日ここから出帆《しゅっぱん》するのだから、覚《おぼ》えておいで」
これはうれしい好意《こうい》であったが、マチアにもわたしにも、てんでん、この海を二度とわたりたくない……ともかくも、ここしばらくはわたりたくないわけがあった。
運よくわたしたちのかくしには、ボブの興行《こうぎょう》を手伝《てつだ》ってもうけたお金があった。みんなで二十七フランと五十サンチームあった。マチアはボブに二十七フランを、わたしたちの逃亡《とうぼう》のために骨《ほね》を折《お》ってくれた礼にやりたいと思ったが、かれは一スーの金も受け取らなかった。
「さてどちらへ出かけよう」わたしはフランスへ上陸《じょうりく》するとこう言った。
「運河《うんが》について行くさ」とマチアはすぐに答えた。「ぼくは考えがあるのだ。ぼくはきっと白鳥号がこの夏は運河に出ていると思うよ。アーサが悪いのだからね。ぼくはきっと見つかるはずだと思うよ」とかれは言い足した。
「でもリーズやほかの人たちは」とわたしは言った。
「ぼくたちはミリガン夫人《ふじん》を探《さが》しながら、あの人たちにも会える。運河《うんが》をのぼって行きながらとちゅう止まってリーズをたずねることができる」
わたしたちは持って来た地図で、いちばん近い川を探《さが》すと、それはセーヌ川であることがわかった。
「ぼくたちはセーヌ川をのぼって行って、とちゅう岸で会う船頭に片《かた》っぱしから白鳥号を見たかたずねようじやないか。きみの話では、その船はだいぶなみの船とはちがうようだから、見れば覚《おぼ》えているだろうよ」
これからおそらく続《つづ》くかもしれない長い旅路《たびじ》にたつまえに、わたしはカピのからだを洗《あら》ってやるため、やわらかい石けんを買った。わたしにとっては、黄色いカピは、カピではなかった。わたしたちは代わりばんこにカピをつかまえては、かれがいやになるまでよく洗ってやった。でもボブの絵の具は上等な絵の具で、洗ってやってもやはり黄色かった。だがいくらか青みをもってはきた。それでかれをもとの色に返すまでには、ずいぶんたびたび石《せっ》けん浴《よく》をやった。幸いノルマンデーは小川の多い地方であったから、毎日わたしたちは根気よく行水をつかってやった。
わたしたちはある朝小山の上に着いた。わたしたちの前途《ぜんと》に当たって、セーヌ川が大きな曲線を作って流れているのを見た。それから進んで行って、わたしたちは会う人ごとにたずね始めた。あのろうかのついた美しい船の白鳥号を見たことはないか――だれもそれを見た者はなかった。きっと夜のうちに通ってしまったのかもしれなかった。わたしたちはそれからルーアンへ行った。そこでもまた同じ問いをくり返したが、やはりいい結果《けっか》は得《え》られなかった。でもわたしたちは失望《しつぼう》しないで、一人ひとりたずねながらずんずん進んだ。
行く道みち食べ物を買う金を取るために、足を止めなければならなかったから、やがてパリの郊外《こうがい》へ着くまでは五日間かかった。
幸いシャラントンに着くと、まもなくどの方角に向かっていいか見当がついた。さっそく例《れい》のだいじな質問《しつもん》を出すと、初《はじ》めてわたしたちは待ちもうけていた返答を受け取った。白鳥号に似《に》た大きな遊山船《ゆさんぶね》が、この道を通ったが、左のほうへ曲がって、セーヌ川をずんずん上って行った、というのであった。
わたしたちは岸の近くに下りてみた。マチアは船頭たちの中で舞踏曲《ぶとうきょく》をやることになったので、たいへんはしゃぎきっていた。とつぜんダンスをやめて、ヴァイオリンを持って、マチアは気ちがいのように凱旋《がいせん》マーチをひいた。かれがひいているまに、わたしはその船を見たという男によくたずねた。疑《うたが》いもなくそれは白鳥号であった。なんでもそれはふた月ほどまえ、シャラントンを通って行った。
ふた月か。なんという遠い話であろう。だがなにをちゅうちょすることがあろう。わたしたちにも足がある。向こうも二ひきのいい馬の足がある。でもいつか追い着くであろう。ひまのかかるのはかまったことではない。なによりだいじな、しかもふしぎなことは、白鳥号がとうとう見つかったということであった。
「ねえ、まちがってはいなかった」とマチアがさけんだ。
わたしに勇気《ゆうき》があれば、マチアに向かって、わたしがひじょうに大きな希望《きぼう》を持っていることを打ち明けたかもしれない。けれどわたしは自分の心を自分自身にすら細かく解剖《かいぼう》することができなかった。わたしたちはもういちいち立ち止まって人に聞く必要《ひつよう》はなかった。白鳥号がわたしたちの先に立って進んで行く。わたしたちはただセーヌ川について行けばいいのだ。わたしたちは道みちリーズのいる近所を通りかけていた。わたしはかの女がその家のそばの岸を船の通るとき、見ていなかったろうかと疑《うたが》った。
夜になっても、わたしたちはけっしてつかれたとは言わなかった。そしてあくる朝は早くから出かける仕度をしていた。
「ぼくを起こしてくれたまえ」とねむることの好《す》きなマチアは言った。
それでわたしが起こすと、かれはすぐにとび起きた。
倹約《けんやく》するためにわたしたちは荒物屋《あらものや》で買ったゆで卵《たまご》と、パンを食べた。でもマチアはうまいものはたいへん好《この》んでいた。
「どうかミリガン夫人《ふじん》が、そのタルトをうまくこしらえる料理番《りょうりばん》をまだ使っているといいなあ」とかれは言った。「あんずのタルトはきっとおいしいにちがいない」
「きみはそれを食べたことがあるかい」
「ぼくはりんごのタルトを食べたことはあるが、あんずのタルトは知らない。見たことはあるよ。あの黄色いジャムの上にいっぱいくっついている、白い小さなものはなんだね」
「はたんきょうさ」
「へええ」こう言ってマチアはまるでタルトを一口にうのみにしたように口を開いた。
水門にかかって、わたしたちは白鳥号の便《たよ》りを聞いた。だれもあの美しい小舟《こぶね》を見たし、あの親切なイギリスの婦人《ふじん》と、甲板《かんぱん》の上のソファにねむっている子どものことを話していた。
わたしたちはリーズの家の近くに来た。もう二日、それから一日、それからあとたった二、三時間というふうに近くなってきた。やがてその家が見えてきた。わたしたちはもう歩いてはいられない。かけ出した。どこへわたしたちが行くかわかっているらしいカピは、先に立って勢《いきお》いよく走った。かれはわたしたちの来たことをリーズに知らせようとしたのであった。かの女はわたしたちをむかえに来るだろう。
けれどもわたしたちがその家に着いたとき、戸口には知らない女の人が一人立っているだけであった。
「シュリオのおかみさんはどうしました」とわたしはたずねた。
しばらくのあいだかの女は、ばかなことを聞くよ、と言わないばかりに、わたしたちの顔をながめた。
「あの人はもうここにはいませんよ」とやっとかの女は言った。「エジプトに行っていますよ」
「なにエジプトへ」
マチアとわたしはあきれて顔を見合わせた。わたしたちはほんとうにエジプトのある位置《いち》をよくは知らなかったが、それはぼんやりごくごく遠い海をこえて向こうのほうだと思っていた。
「それからリーズはどうしたでしょう。知っていますか」
「ああ、小さなおしのむすめだね。そう、あの子は知っているよ。あの子はイギリスのおくさんと船に乗って行きましたよ」
「へえ、リーズが白鳥号に」
ゆめを見ているのではないか。マチアとわたしはまた顔を見合った。
「おまえさん、ルミさんかい」とそのとき女はたずねた。
「ええ」
「まあ、シュリオさんは、水で死にましたよ……」
「ええ、水で死んだ」
「そう、あの人は水門に落ちて、くぎにひっかかって死んだのだ。それから気のどくなおかみさんはどうしていいかわからずにいた。するとあの人が先《せん》におよめに来るまえに奉公《ほうこう》していたおくさんが、エジプトへ行くというので、そのおくさんにたのんで子どもの乳母《うば》にしてもらった。そうなるとリーズはどうしていいかわからずに困《こま》っていたところへ、イギリスのおくさんと病身の子どもが船に乗って運河《うんが》を下りて来た。そのおくさんと話をしているうち、おくさんはいつも独《ひと》りぼっちでたいくつしているむすこさんの遊《あそ》び相手《あいて》を探《さが》しているところなので、リーズをもらって行って、教育してみようと言ったのさ。おくさんの言うのには、この子を医者にみせたら、おしが治《なお》っていつか口がきけるようになろうということだからと言った。それでいよいよたって行くときに、リーズがおばさんに、もしおまえさんがここへ訪《たず》ねて来たら、こうこう言ってくれということづけをたのんで行ったそうだ。それだけですよ」
わたしはなんと言おうか、ことばの出ないほどおどろいた。でもマチアはわたしのようにぼんやりはしなかった。
「そのイギリスのおくさんはどこへ行ったでしょ
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