にできるだけのことをしてくれたが、その弁護は力が弱かった。
そのとき判事《はんじ》はしばらくわたしを郡立刑務所《ぐんりつけいむしょ》へ送っておいて、いずれ巡回裁判《じゅんかいさいばん》の回って来るまで待つことにしようと言いわたした。
巡回裁判。わたしはこしかけにたおれた。おお、なぜわたしはマチアの言うことを聞かなかったのであろう。
ボブ
判事《はんじ》が子どもを連《つ》れて寺へはいったどろぼうの捕縛《ほばく》を待つために、わたしはとうとう放免《ほうめん》されなかった。かれらはそのときになって、わたしがその男の共犯者《きょうはんしゃ》であるかどうか初《はじ》めて決めようと言うのである。
かれらはただいま追跡《ついせき》中であると検事《けんじ》が言った。そうすると、わたしはその男とならんで、囚人席《しゅうじんせき》に入れられて、巡回裁判官《じゅんかいさいばんかん》の前に出る恥辱《ちじょく》と苦痛《くつう》をしのばなければならないのであろう。
その晩《ばん》日のくれかかるまえ、わたしははっきりとコルネの音を聞いた。マチアが来ているのだ。なつかしいマチアよ。かれはじきそばに来て、わたしのことを思っていることを知らそうとしたのであった。かれはまさしく窓《まど》の外の往来《おうらい》にいるのであった。わたしは足音とおおぜいのぶつぶつ言う声を聞いた。マチアとボブが、きっと演芸《えんげい》を始めているのであった。
ふとわたしはよくとおる声で、「あした夜明けに」とフランス語で言う声を聞いた。わたしはそれがなんのことだか確《たし》かにはわからなかった。とにかくあしたの夜明けにはしっかり気を張《は》っていなければならなかった。
暗くなるとさっそくわたしはハンモックにはいった。たいへんつかれてはいたけれど、ねこむにはなかなか手間がとれた。そのうちやっとぐっすりねこんだ。目が覚《さ》めるともう夜中であった。星は暗い空にかがやいて、沈黙《ちんもく》がすべてを支配《しはい》していた。時計は三時を打った。わたしはこれで一時間、これで十五分と勘定《かんじょう》していた。かべによりかかりながら、じっと目を窓《まど》に向けて、星が一つ一つ消えてゆくのをながめた。遠方には鶏《とり》がときを作る声が聞こえた。もう明け方であった。
わたしはごく静《しず》かに窓《まど》を開けた。なにがそこにあったか。相変《あいか》わらず鉄の格子《こうし》と、高いかべが前にあった。わたしは出ることができない。けれどばかげた考えではあっても、わたしは自由になることを待ちもうけていた。
朝の風が耳がちぎれるように寒かったけれど、わたしは窓《まど》のそばに立ち止まって、なにを見るということなしに見て、なにを聞くということなしに耳を立てた。
大きな白い雲が空にうかんだ。夜明けであった。わたしの心臓《しんぞう》ははげしく鼓動《こどう》した。
するとかべをがりがり引っかく音が聞こえた。でも足音をすこしも聞かなかった。わたしは耳をすませた。引っかく音が続《つづ》いた。ぬっと人の頭がかべの上に現《あらわ》れた。うす暗い光の中にわたしはボブを見つけた。
かれは鉄格子《てつごうし》に顔をおしつけて、わたしを見た。
「静《しず》かに」とかれはそっと言った。
かれはわたしに窓《まど》からどけという合図をした。ふしぎに思いながら、わたしは服従《ふくじゅう》した。かれは豆鉄砲《まめでっぽう》を口に当ててふいた。かわいらしい鉄砲玉《てっぽうたま》が空をまって、わたしの足もとに落ちた。ボブの頭が消えた。
わたしは弾丸《だんがん》をわしづかみにつかんだ。それはうすい紙をまめのように小さい玉に丸めたものであった。明かりがあんまり暗いので、なにが書いてあるか見えなかった。夜の明けるまで待たなければならなかった。わたしはそっと窓《まど》を閉《し》めて、小さな紙玉を手に持ったまま、またハンモックに転《ころ》がった。光の来ることのどんなにおそいことぞ。やっとわたしはその紙に書いてある文字を読むことができた。それにはこうあった。
「あしたきみは汽車に乗せられて、郡立刑務所《ぐんりつけいむしょ》へ送られるはずだ。巡査《じゅんさ》が一人ついて行くことになっている。きみは汽車の戸口に近い所にいたまえ。よく勘定《かんじょう》していたまえ、四十五分目に汽車は連結点《れんけつてん》の近くで速力《そくりょく》をゆるめる。そのときドアを開けてとびだしたまえ。左手の小山を登れば、われわれはそこに待っている。しつかりやれ。なによりもうまく前へとんで、足を下に着くことだ」
助かった。わたしは巡回裁判《じゅんかいさいばん》の前に出ないですむ。ありがたい、マチア。それから、ボブ。マチアに加勢《かせい》してくれるボブはずいぶんいい人だ。かわいそうにマチア一人では、とてもこれだけできやしない。
わたしは書きつけを二度読み直した。汽車が出てから四十五分……左手の小山……汽車からとび下りるのはけんのんな仕事だ。でもそれをやり損《そこ》なって死んでも、したほうがいい。どろぼうの宣告《せんこく》を受けて死ぬよりましだ。
わたしはまたもう一度書きつけを読んでから、それをくちゃくちゃにかんでしまった。
そのあくる日の午後、巡査《じゅんさ》は監房《かんぼう》にはいって来て、すぐついて来いと言った。かれは五十|以上《いじょう》の男であった。わたしはかれがたいしてはしっこそうでないのを見て、まずよしと思った。
事件《じけん》はボブが言ったように進んで行った。汽車は走り出した。わたしは汽車の戸口に席《せき》をしめた。巡査はわたしの前にこしをかけた。車室の中はわたしたちだけであった。
「おまえはイギリス語がわかるか」と巡査《じゅんさ》はたずねた。
「あまり早く言われなければわかります」とわたしは答えた。
「そうか。よし。それでは少しおまえに相談《そうだん》がある」とかれは言った。「法律《ほうりつ》をあなどらないようにしろ。まあどういうしだいの事件《じけん》だか、話してごらん。おまえに五シルリングやる。牢《ろう》の中で金を持っていればよけい気楽だ」
わたしはなにも白状《はくじょう》することがないと言おうとしたが、そう言うと巡査《じゅんさ》をおこらせるだろうと思って、なにも言わなかった。
「まあ、よく考えてごらん」とかれは続《つづ》けた。「で、刑務所《けいむしょ》へ行っても、向こうで、いちばん先に来た者に言わないで、わたしの所へそう言ってお寄《よ》こし。おまえのことを心配している人間のあることは、つごうのいいことだし、わたしは喜《よろこ》んでおまえの加勢《かせい》をしてやる」
わたしはうなずいた。
「ドルフィンさんと言ってお聞き。おまえ、名前を覚《おぼ》えたろうなあ」
「ええ」
わたしはドアによりかかっていた。窓《まど》はあいていて、風がふきこんだ。巡査《じゅんさ》はあまり風がはいると言って、こしかけのまん中へ席《せき》を移《うつ》した。わたしの左の手がそっと外へ回ってハンドルを回した。右の手でわたしはドアをつかんだ。数分間たった。汽笛が鳴って速力《そくりょく》がゆるんだ。
いよいよだいじなしゅんかんが来た。わたしは急いてドアをおし開けて、できるだけ遠くへとんだ。運よく前へ出していたわたしの手が草にさわった。でも震動《しんどう》はずいぶんひどかったから、わたしは人事不省《じんじふせい》で地べたに転《ころ》がった。わたしが正気に返ったとき、わたしはまだ汽車の中にいると思った。わたしはまだ運ばれているように感じたのであった。そこらを見回して、わたしは馬車の中に転がっていることを知った。きみょうだ。わたしのほおはしめっていた。やわらかな温《あたた》かい舌《した》が、わたしをなめていた。少しふり向くと、一ぴきの黄色い、みっともない犬がわたしの顔をのぞきこんでいた。マチアがわたしのそばにひざをついていた。
「きみは助かったよ」とかれは言って、犬をおしのけた。
「ぼくはどこにいるんだ」
「きみは馬車の中だよ。ボブが御者《ぎょしゃ》をしている」
「どうだな」とボブが御者台から声をかけた。「手足が動かせるか」
わたしは手足をのばして、かれの言うとおりにした。
「よし」とマチアは言った。「どこもくじきやしない」
「どうしたんだ」
「きみはぼくらの言ったとおりに、汽車からとび下りた。だが震動《しんどう》で目が回って、みぞの中に転《ころ》がりこんだ。きみがいつまでも来ないから、ボブが馬車を下りて、小山をかけ下りて、きみをうでにひっかかえて帰って来た。ぼくらはきみが死んだと思ったよ。まったく心配したよ」
わたしはかれの手をさすった。
「それから巡査《じゅんさ》は」とわたしは聞いた。
「汽車はあのまま進んだ。止まらなかった」
わたしの目はまた、そばでわたしをながめている、みにくい黄色い犬の上に落ちた。
それはカピに似《に》ていた。でもカピは白かった。
「なんだね、この犬は」とわたしはたずねた。
マチアが答える間もないうちに、そのみっともない小さな動物はわたしの上にとびかかった。はげしくなめ回して、くんくん鳴いていた。
「カピだよ。絵の具で染《そ》めたのだよ」とマチアが笑《わら》いながらさけんだ。
「染めた、どうして」
「だって見つからないようにさ」
ボブとマチアが馬車の中にうまくわたしをかくすようにくふうしてくれているあいだに、わたしは、いったいこれからどこへ行くのだとたずねた。
「リツル・ハンプトンへ」とマチアが言った。「そこへ行けば、ボブのにいさんが船を持っていて、ノルマンデーからバターと卵《たまご》を運んで、フランスの海岸を回っているのだ。ぼくらはなにからなにまでボブの世話になった。ぼくのようなちっぽけな者が、一人でなにができよう。汽車からとび下りるくふうもボブが考えたのだ」
「それからカピは。カピをうまく取り返したのはだれだ」
「ぼくだよ。だが、ぼくらが犬を交番から取りもどしたあとで、見つからないように黄色く絵の具をぬったのはボブだった。判事《はんじ》はあの巡査《じゅんさ》を気が利《き》いていると言った。だがカピを連《つ》れて行かれるのは、あんまり気が利いたと言えない。もっともカピはぼくのにおいをかぎつけて、ほとんど一人で出て来た。ボブは犬どろぼうの術《じゅつ》を知っているのだ」
「それからきみの足は」
「よくなったよ。たいていよくなったよ。じつはぼくは足のことを考えているひまがなかった」
夜になりかかっていた。わたしたちはまだ長い道を行かなければならなかった。
「きみはこわいか」とわたしがだまって転《ころ》がっていると、マチアがたずねた。
「いや、こわくはない」とわたしは答えた。「だってぼくはつかまるとは思わないから。でもにげ出すということが罪《つみ》になりやしないかと思うのだ。それが気になるのだ」
「ボブもぼくも、きみを巡回裁判《じゅんかいさいばん》に出すぐらいなら、なにをしてもいいと思ったからな」
あれから、汽車が止まったところで、巡査《じゅんさ》がさっそく捜索《そうさく》にかかることは確《たし》かなので、わたしたちはいっしょうけんめい馬を走らせた。わたしたちの通って行く村は、ひじょうに静《しず》かであった。明かりがただ二つ三つ窓《まど》に見えた。マチアとわたしは毛布《もうふ》の下にもぐった。しばらくのあいだ寒い風がふいていた。くちびるに舌《した》を当てると、塩《しお》からい味がした。ああ、わたしたちは海に近づいていた。
まもなくわたしたちは、ときどき明かりのちらちらするのを見つけた。それが燈台《とうだい》であった。ふとボブは馬を止めて、馬車からとび下りながら、わたしたちに待っていろと言った。かれは兄弟の所へ行って、わたしたちをその船に乗せて、安全に向こう岸までわたれるか、様子を聞きに行ったのであった。
ボブはひじょうに遠くへ行ったらしかった。わたしは口をきかなかった。すぐ間近の岸に、波のくだける音が聞
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