、そのあいだときどき口をはさんで、所どころ要点《ようてん》を確《たし》かめるだけであった。わたしはこれほどの熱心《ねっしん》をもって話を聞いてもらったことがなかった。かの女の目はすこしもわたしからはなれなかった。
わたしが話をしてしまったとき、かの女はしばらくだまって、わたしの顔を見つめていた。最後《さいご》にかの女は言った。
「これはなかなか重大なことだから、よく考えなければならない。けれどいまからあなたはアーサのお友だち……」
こう言ってかの女はすこしちゅうちょしながら、「兄弟だと思ってください。二時間たったら、ザルプというホテルへ来てください。さしあたりそこに待っていてくれれば、だれか人を寄《よ》こしてそちらへ案内《あんない》させますから。ではしばらくごめんなさいよ」
ふたたび夫人《ふじん》はわたしにキッスした。そしてマチアと握手《あくしゅ》をして、足早に歩いて行った。
「きみはミリガン夫人《ふじん》になにを話したのだ」とわたしはマチアに質問《しつもん》した。
「あの人がいまきみに言っただけのことさ。それからまだいろいろなことをね」とかれは答えた。
「ああ、あの人は親切なおくさんだね。りっぱなおくさんだね」
「アーサにも会ったかい」
「ほんの遠方から。でもりっぱな子どもだということはよくわかった」
わたしはまだマチアに質問《しつもん》し続《つづ》けた。けれどもかれは、何事もぼんやりとしか答えなかった。
わたしたちは相変《あいか》わらずぼろぼろの旅仕度であったが、ホテルでは黒の礼服に白のネクタイをした給仕《きゅうじ》に案内《あんない》をされた。かれはわたしたちを居間《いま》へ連《つ》れて行った。わたしたちの寝部屋《ねべや》をわたしはどんなに美しいと思ったろう。そこには白い寝台《ねだい》がならんでいた。窓《まど》は湖水を見晴らす露台《ろだい》に向かって開いていた。給仕は「夕食にはなんでもお好《この》みのものを」と言った。そうして、よければ露台へ食卓《しょくたく》を出そうかとも言った。
「タルトがありますか」とマチアがたずねた。
「へえ、大黄《だいおう》のタルトでも、いちごのタルトでも、すぐりの実のタルトでも」
「よし。ではそのタルトをぜひ出してください」
「三|種《しゅ》ともみんな出しますか」
「むろん」
「それからお食事は。肉はなんにいたしましょう。野菜《やさい》は……」
いちいちの口上《こうじょう》にマチアは目を丸《まる》くした。でもかれはいっこう閉口《へいこう》したふうを見せなかった。
「なんでもいいように見計らってください」とかれは冷淡《れいたん》に答えた。
給仕《きゅうじ》はもったいぶって部屋《へや》を出て行った。
そのあくる日ミリガン夫人《ふじん》は、わたしたちに会いに来た。かの女は洋服屋とシャツ屋を連《つ》れて来た。わたしたちの服とシャツの寸法《すんぽう》を計らせた。ミリガン夫人は、リーズがまだ話をしようと努《つと》めていることを話して、医者はもうじき治《なお》ると言っていると言った。それから一時間わたしたちの所にいて、またわたしに優《やさ》しくキッスし、マチアと固《かた》い握手《あくしゅ》をして、出て行った。
四日|続《つづ》けてかの女は来た。そのたんびにだんだん優しくも、愛情《あいじょう》深《ぶか》くもなっていったが、やはりいくらかひかえ目にするところがあった。五日目に、わたしが白鳥号でおなじみになった女中が夫人《ふじん》の代わりに来て、ミリガン夫人《ふじん》がわたしたちを待ち受けている、もうおむかえの馬車がホテルの門口《かどぐち》に来ていると言った。マチアはさっそく一頭引きの馬車の上に、むかしから乗りつけている人のように乗りこんだ。カピもいっこうきまり悪そうなふうもなく中へとびこんで、ビロードのしとねの上にゆうゆうと上がりこんだ。
馬車の道はわずかであった。あまりわずかすぎたと思った。わたしはゆめの中を歩いている人のように、ばかげた考えで頭の中がいっぱいであった。いや、すくなくともわたしの考えたことはばかげていたらしかった。わたしたちは客間に通された。ミリガン夫人《ふじん》と、アーサと、リーズがそこにいた。アーサは手を差《さ》し延《の》べた。わたしはかれのほうへかけ出して行って、それからリーズにキッスした。ミリガン夫人はわたしにキッスした。「やっとのことで」とかの女は言った。「あなたのものであるはずの位置《いち》に、あなたを置《お》くことができるようになりました」
わたしはこう言われたことばの意味を話してもらおうと思って、かの女の顔を見た。かの女はドアのほうへ寄《よ》って、それを開けた。そのときこそほんとうにびっくりするものが現《あらわ》れた。バルブレンのおっかあがはいって来た。その
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