ょうな声で歌う声がした。だれだろう。なんというふしぎな声だろう。
「アーサじゃないかしら」とマチアが聞いた。
「いいや、アーサではない。ぼくはこれまであんな声を聞いたことがなかった」
けれどそのうちカピがくんくん言い始めた。はげしい歓喜《かんき》の表情《ひょうじょう》のありったけを見せて、かべに向かってとびかかっていた。
「だれが歌を歌っているのだ」と、わたしはもう自分をおさえることができなくなってさけんだ。
「ルミ」と、そのときそのきみょうなか細い声がさけんだ。いまのわたしのことばに返事をする代わりに、わたしの名前を呼《よ》んだのだ。
マチアとわたしはかみなりに打たれたようにおたがいに顔を見合わせた。わたしたちがあっけにとられて、てんでんの顔を見合ったまま立っていると、かべの向こうにハンケチが一|枚《まい》ひらひらしているのが見えた。わたしたちはそこへかけ出して行った。わたしたちは、園《その》の向《む》こう側《がわ》を取り巻《ま》いているかきねのそばまで行ってみて、初《はじ》めてハンケチをふっている人を見つけた。
「リーズだ」
とうとうわたしたちはかの女を見つけた。もう遠くない所にミリガン夫人《ふじん》も、アーサもいるにちがいなかった。
「でもだれが歌を歌ったのだろう」
これがマチアもわたしも、やっとことばが出るといきなり持ち出した質問《しつもん》であった。
「わたしよ」とリーズが答えた。
リーズが歌っていた。リーズが話しかけていた。
医者は、いつかリーズがかの女のことばを取り返すだろう、それはたぶんはげしい感動の場合だと言っていたが、わたしはそんなことができるはずがないと思っていた。でも目の前に奇跡《きせき》は行われた。そしてそれはわたしがかの女の所に来て、いつも歌い慣《な》れたナポリ小唄《こうた》を歌うのを聞いて、はげしい感動を起こしたしゅんかんに、かの女がその声を回復《かいふく》したことがわかった。わたしはそう思って、深く心を打たれたあまり、両手を延《の》ばしてからだをまっすぐにした。
「ミリガン夫人《ふじん》はどこにいるの」とわたしはたずねた。「それからアーサは」
リーズはくちびるを動かしたが、ほんの聞き取れない音を出しただけで、じれったくなって、いつもの手まねのことばになった。かの女はまだことばをほんとうに出すだけに器用《きよう》に舌《した》が働《はたら》かなかった。
かの女はそのとき園《その》を指さした。そこにアーサが病人用のねいすにねているのを見た。そのそばに母の夫人《ふじん》がいた。そしてもう一つこちらには……ジェイムズ・ミリガン氏《し》がいた。
こわくなって、実際《じっさい》戦慄《せんりつ》して、わたしはかきねの後ろにはいこんだ。リーズはわたしがなぜそんなことをするか、ふしぎに思ったにちがいない。そのときわたしは手まねをして、かの女に向こうへ行かせた。
「おいで、リーズ。それでないとぼくが、災難《さいなん》に会うから」とわたしは言った。「あした九時にここへおいで。一人でだよ。そのとき話してあげるから」
かの女はしばらくちゅうちょしたが、やがて園へはいって行った。
「ぼくたちはミリガン夫人《ふじん》に話をするのをあしたまで待っていてはいけない」とマチアが言った。「こう言ううちもあの悪おじさんがアーサを殺《ころ》しかねない。あの人はまだぼくの顔は知らないのだから、ぼくはすぐにミリガン夫人《ふじん》に会いに行って話をする」
マチアの言うところに道理があったので、わたしはかれを出してやった。わたしはしばらくのあいだ、少しはなれた大きなくりの木のかげに待っていることにした。
わたしは長いあいだマチアを待った。十何度も、わたしはかれを出してやったのが、失敗《しっぱい》ではなかったかと疑《うたが》った。
やっとのことで、わたしはかれがミリガン夫人《ふじん》を連《つ》れてもどって来るのを見た。わたしはあわてて夫人のほうへかけて行って、わたしに差《さ》し出された手をつかんで、その上にからだをかがめた。しかしかの女は両うでをわたしのからだに回して、こごみながら優《やさ》しくわたしの額《ひたい》にキッスした。
「まあ、どうおしだえ」と夫人《ふじん》はつぶやいた。
夫人は美しい白い指で、わたしの額髪《ひたいがみ》をなでて、長いあいだわたしの顔を見た。
「そうだそうだ」とかの女は優《やさ》しく独《ひと》り言《ごと》をささやいた。
わたしはあまり幸福で、ひと言もものが言えなかった。
「マチアとわたしは長いあいだお話をしましたよ」とかの女は言った。「でもわたしはあなたがどうしてドリスコルのうちへ行くようになったか、あなたの口から聞きたいと思うのですよ」
わたしはかの女に問われるままに答えた。そしてかの女は
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