う」
「スイスへね。リーズはわたしの所に向けて、おまえさんにあげるあて名を書いて寄《よ》こすはずだったが、まだ手紙は受け取らないよ」


     生きた証拠《しょうこ》

「さあ、進め、子どもたち」婦人《ふじん》に礼を言ってしまうと、マチアがこうさけんだ。
「こうなるとぼくたちがあとを追うのは、アーサとミリガン夫人《ふじん》だけではなく、リーズまでいっしょなのだ。なんという幸せだ。どういう回り合わせになるか、わかったものではないなあ」
 わたしたちはそれからまた白鳥号|探索《たんさく》の旅を続《つづ》けた。ただ夜とまって、ときどきすこしの金を取るだけに足を止めた。
「スイスからはイタリアへ出るのだ」とマチアが感情《かんじょう》をこめて言った。「もしミリガン夫人《ふじん》を追いかけて行くうちに、ルッカまで出たら、ぼくの小さいクリスチーナがどんなにうれしがるだろうな」
 気のどくなマチア、かれはわたしのために、わたしの愛《あい》する人たちを探《さが》すことに骨《ほね》を折《お》っている。しかもわたしはかれを小さな妹に会わせるためにはすこしも骨を折ってはいないのだ。
 リヨンで、わたしたちは、白鳥号の便《たよ》りを聞いた。それはほんの六週間わたしたちよりまえにそこを通ったのであった。それではいよいよスイスまで行かないうちに追い着くかもしれないと思った。そのときはまだ、ローヌ川からジュネーヴの湖水までは船が通らないことを知らなかった。わたしたちはミリガン夫人《ふじん》がまっすぐに船でスイスへ行ったものと思っていた。
 するとそのつぎの町でふと白鳥号の姿《すがた》を遠くに見つけたとき、どんなにわたしはびっくりしたであろう。わたしたちは河岸《かし》についてかけ出した。どうしたということだ。小舟《こぶね》の上はどこもここも閉《し》めきってあった。ろうかの上に花もなかった。アーサはどうかしたのかしらん。わたしたちはおたがいに同じようなしずみきった顔を見合わせながら立ち止まった。
 するとそのとき船を預《あず》かっていた男がわたしたちに、イギリスのおくさんは病人の子どもと、おしの小むすめを連《つ》れてスイスへ出かけたと言った。かれらは一人女中を連れて、馬車に乗って行った。あとの家来は荷物を運《はこ》びながら、続《つづ》いて行った。
 これだけ聞いて、わたしたちはまた息が出た。
「それでおくさんはどちらに行かれたのでしょう」とマチアがたずねた。
「おくさんはヴヴェーに別荘《べっそう》を持っておいでだ。だがどのへんだかわからない。なんでも夏はそこへ行ってくらすことになっているのだ」
 わたしたちはヴヴェーに向かって出発した。もう向こうはずんずん歩いて行く旅ではない、足を止めているのだから、ヴヴェーへ行って探《さが》せば、きっとわかる。
 こうしてわたしたちがヴヴェーに着いたときには、かくしに三スーの金と、かかとをすり切った長ぐつだけが残《のこ》った。でもヴヴェーは思ったように小さな村ではなかった。それはかなりな町で、ミリガン夫人《ふじん》はとか、病人の子どもとおしのむすめを連《つ》れたイギリスのおくさんはとか言ってたずねたところで、いっこうばかげていることがわかった。ヴヴェーにはずいぶんたくさんのイギリス人がいた。その場所はほとんどロンドン近くの遊山場《ゆさんば》によく似《に》ていた。いちばんいいしかたは、あの人たちが住んでいそうな家を一けん一けん探《さが》して歩くことである。そしてそれはたいしてむずかしいことではないであろう。わたしたちはただ町まちで音楽をやって歩けばいいのだ。
 それで毎日|根《こん》よくほうぼうへ出かけて、演芸《えんげい》をやって歩いた。けれどまだミリガン夫人《ふじん》の手がかりはなかった。
 わたしたちは湖水から山へ、山から湖水へ、右左を見て、しじゅう往来《おうらい》の人の顔つきをのぞいたり、ことばを聞いて、返事をしてくれそうな人にたずねて歩いた。ある人はわたしたちを山の中腹《ちゅうふく》に造《つく》りかけた別荘《べっそう》へ行かせた。また一人は、その人たちは湖水のそばに住んでいると断言《だんげん》した。なるほど山の別荘に住んでいるのもイギリスのおくさんであった。湖水のそばに家を持っていたのもイギリスのおくさんであったが、わたしたちのたずねるミリガン夫人《ふじん》ではなかった。
 ある日の午後、わたしたちは例《れい》のとおり往来《おうらい》のまん中で音楽をやっていた。そこに大きな鉄の門のある家があった。母屋《おもや》は園《その》のおくに引っこんで建《た》っていた。前には石のかべがあった。わたしはありったけの高い声で歌を歌っていた。例のナポリの小唄《こうた》の第一|節《せつ》を歌って第二節にかかろうとしていたとき、か細いきみ
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