けんだ。
わたしに勇気《ゆうき》があれば、マチアに向かって、わたしがひじょうに大きな希望《きぼう》を持っていることを打ち明けたかもしれない。けれどわたしは自分の心を自分自身にすら細かく解剖《かいぼう》することができなかった。わたしたちはもういちいち立ち止まって人に聞く必要《ひつよう》はなかった。白鳥号がわたしたちの先に立って進んで行く。わたしたちはただセーヌ川について行けばいいのだ。わたしたちは道みちリーズのいる近所を通りかけていた。わたしはかの女がその家のそばの岸を船の通るとき、見ていなかったろうかと疑《うたが》った。
夜になっても、わたしたちはけっしてつかれたとは言わなかった。そしてあくる朝は早くから出かける仕度をしていた。
「ぼくを起こしてくれたまえ」とねむることの好《す》きなマチアは言った。
それでわたしが起こすと、かれはすぐにとび起きた。
倹約《けんやく》するためにわたしたちは荒物屋《あらものや》で買ったゆで卵《たまご》と、パンを食べた。でもマチアはうまいものはたいへん好《この》んでいた。
「どうかミリガン夫人《ふじん》が、そのタルトをうまくこしらえる料理番《りょうりばん》をまだ使っているといいなあ」とかれは言った。「あんずのタルトはきっとおいしいにちがいない」
「きみはそれを食べたことがあるかい」
「ぼくはりんごのタルトを食べたことはあるが、あんずのタルトは知らない。見たことはあるよ。あの黄色いジャムの上にいっぱいくっついている、白い小さなものはなんだね」
「はたんきょうさ」
「へええ」こう言ってマチアはまるでタルトを一口にうのみにしたように口を開いた。
水門にかかって、わたしたちは白鳥号の便《たよ》りを聞いた。だれもあの美しい小舟《こぶね》を見たし、あの親切なイギリスの婦人《ふじん》と、甲板《かんぱん》の上のソファにねむっている子どものことを話していた。
わたしたちはリーズの家の近くに来た。もう二日、それから一日、それからあとたった二、三時間というふうに近くなってきた。やがてその家が見えてきた。わたしたちはもう歩いてはいられない。かけ出した。どこへわたしたちが行くかわかっているらしいカピは、先に立って勢《いきお》いよく走った。かれはわたしたちの来たことをリーズに知らせようとしたのであった。かの女はわたしたちをむかえに来るだろう。
けれどもわたしたちがその家に着いたとき、戸口には知らない女の人が一人立っているだけであった。
「シュリオのおかみさんはどうしました」とわたしはたずねた。
しばらくのあいだかの女は、ばかなことを聞くよ、と言わないばかりに、わたしたちの顔をながめた。
「あの人はもうここにはいませんよ」とやっとかの女は言った。「エジプトに行っていますよ」
「なにエジプトへ」
マチアとわたしはあきれて顔を見合わせた。わたしたちはほんとうにエジプトのある位置《いち》をよくは知らなかったが、それはぼんやりごくごく遠い海をこえて向こうのほうだと思っていた。
「それからリーズはどうしたでしょう。知っていますか」
「ああ、小さなおしのむすめだね。そう、あの子は知っているよ。あの子はイギリスのおくさんと船に乗って行きましたよ」
「へえ、リーズが白鳥号に」
ゆめを見ているのではないか。マチアとわたしはまた顔を見合った。
「おまえさん、ルミさんかい」とそのとき女はたずねた。
「ええ」
「まあ、シュリオさんは、水で死にましたよ……」
「ええ、水で死んだ」
「そう、あの人は水門に落ちて、くぎにひっかかって死んだのだ。それから気のどくなおかみさんはどうしていいかわからずにいた。するとあの人が先《せん》におよめに来るまえに奉公《ほうこう》していたおくさんが、エジプトへ行くというので、そのおくさんにたのんで子どもの乳母《うば》にしてもらった。そうなるとリーズはどうしていいかわからずに困《こま》っていたところへ、イギリスのおくさんと病身の子どもが船に乗って運河《うんが》を下りて来た。そのおくさんと話をしているうち、おくさんはいつも独《ひと》りぼっちでたいくつしているむすこさんの遊《あそ》び相手《あいて》を探《さが》しているところなので、リーズをもらって行って、教育してみようと言ったのさ。おくさんの言うのには、この子を医者にみせたら、おしが治《なお》っていつか口がきけるようになろうということだからと言った。それでいよいよたって行くときに、リーズがおばさんに、もしおまえさんがここへ訪《たず》ねて来たら、こうこう言ってくれということづけをたのんで行ったそうだ。それだけですよ」
わたしはなんと言おうか、ことばの出ないほどおどろいた。でもマチアはわたしのようにぼんやりはしなかった。
「そのイギリスのおくさんはどこへ行ったでしょ
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