いて、ノルマンデーからバターと卵《たまご》を運んで、フランスの海岸を回っているのだ。ぼくらはなにからなにまでボブの世話になった。ぼくのようなちっぽけな者が、一人でなにができよう。汽車からとび下りるくふうもボブが考えたのだ」
「それからカピは。カピをうまく取り返したのはだれだ」
「ぼくだよ。だが、ぼくらが犬を交番から取りもどしたあとで、見つからないように黄色く絵の具をぬったのはボブだった。判事《はんじ》はあの巡査《じゅんさ》を気が利《き》いていると言った。だがカピを連《つ》れて行かれるのは、あんまり気が利いたと言えない。もっともカピはぼくのにおいをかぎつけて、ほとんど一人で出て来た。ボブは犬どろぼうの術《じゅつ》を知っているのだ」
「それからきみの足は」
「よくなったよ。たいていよくなったよ。じつはぼくは足のことを考えているひまがなかった」
夜になりかかっていた。わたしたちはまだ長い道を行かなければならなかった。
「きみはこわいか」とわたしがだまって転《ころ》がっていると、マチアがたずねた。
「いや、こわくはない」とわたしは答えた。「だってぼくはつかまるとは思わないから。でもにげ出すということが罪《つみ》になりやしないかと思うのだ。それが気になるのだ」
「ボブもぼくも、きみを巡回裁判《じゅんかいさいばん》に出すぐらいなら、なにをしてもいいと思ったからな」
あれから、汽車が止まったところで、巡査《じゅんさ》がさっそく捜索《そうさく》にかかることは確《たし》かなので、わたしたちはいっしょうけんめい馬を走らせた。わたしたちの通って行く村は、ひじょうに静《しず》かであった。明かりがただ二つ三つ窓《まど》に見えた。マチアとわたしは毛布《もうふ》の下にもぐった。しばらくのあいだ寒い風がふいていた。くちびるに舌《した》を当てると、塩《しお》からい味がした。ああ、わたしたちは海に近づいていた。
まもなくわたしたちは、ときどき明かりのちらちらするのを見つけた。それが燈台《とうだい》であった。ふとボブは馬を止めて、馬車からとび下りながら、わたしたちに待っていろと言った。かれは兄弟の所へ行って、わたしたちをその船に乗せて、安全に向こう岸までわたれるか、様子を聞きに行ったのであった。
ボブはひじょうに遠くへ行ったらしかった。わたしは口をきかなかった。すぐ間近の岸に、波のくだける音が聞こえた。マチアはふるえていた。わたしもふるえていた。
「寒いね」とかれはささやいた。わたしたちをふるえさせるのは寒さのためだけであったろうか。
やがて往来《おうらい》に足音がした。ボブは帰って来た。わたしの運命が決められた。胴服《どうふく》を着て油じみたぼうしをかぶったぶこつな顔つきの船乗りが、ボブといっしょに来た。
「これがぼくの兄貴《あにき》だ」とボブが言った。「きみたちを船に乗せて行ってくれるはずだ。そこでぼくはここでお別《わか》れとしよう。だれもぼくがきみをここへ連《つ》れて来たことを知るはずがないよ」
わたしはボブに礼を言おうとしたが、かれは手短に打ち切った。わたしはかれの手をにぎった。
「それは言いっこなしだ」とかれは軽く言った。「きみたち二人は、このあいだの晩《ばん》ぼくを助けてくれた。いいことをすればいい報《むく》いがあるさ。それでぼくもマチアの友だちを助けてあげることができたのだから、自分でもゆかいだ」
わたしたちはボブの兄弟のあとについて、いくつか折《お》れ曲がった静《しず》かな通りを通って、波止場《はとば》に着いた。かれはひと言も口をきくことなしに、一そうの小さい帆船《はんせん》を指さした。二、三分でわたしたちは甲板《かんぱん》の上にいた。かれはわたしたちに下の小さな船室にはいれと言った。
「二時間すれば船を出す」とかれは言った。「そこにはいって、音のしないようにしておいで」
でもわたしたちはもうふるえてはいなかった。わたしたちはまっ暗な中で肩《かた》をならべてすわっていた。
白鳥号
ボブの兄弟が立ち去ったあと、しばらくのあいだわたしたちは、ただ風の音と、キールにぶつかる波の音を聞くだけであった。やがて足音が上の甲板《かんぱん》に聞こえて、滑車《かっしゃ》が回りだした。帆《ほ》が上げられて、やがて急に一方にかしいだ。動き始めたと思うまもなく、船はあらい海の上へぐんぐんすべり出した。
「マチア、気のどくだね」とわたしはかれの手を取った。
「かまわないよ。助かったのだから」とかれは言った。「船に酔《よ》ったってなんだ」
そのあくる日、わたしは船室と甲板《かんぱん》の間に時間を過《す》ごした。マチアは一人うっちゃっておいてもらいたがった。とうとう船長が、あれがバルフルールだと指さしてくれたとき、わたしは急いで船室に下りて、
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