はずいぶんいい人だ。かわいそうにマチア一人では、とてもこれだけできやしない。
わたしは書きつけを二度読み直した。汽車が出てから四十五分……左手の小山……汽車からとび下りるのはけんのんな仕事だ。でもそれをやり損《そこ》なって死んでも、したほうがいい。どろぼうの宣告《せんこく》を受けて死ぬよりましだ。
わたしはまたもう一度書きつけを読んでから、それをくちゃくちゃにかんでしまった。
そのあくる日の午後、巡査《じゅんさ》は監房《かんぼう》にはいって来て、すぐついて来いと言った。かれは五十|以上《いじょう》の男であった。わたしはかれがたいしてはしっこそうでないのを見て、まずよしと思った。
事件《じけん》はボブが言ったように進んで行った。汽車は走り出した。わたしは汽車の戸口に席《せき》をしめた。巡査はわたしの前にこしをかけた。車室の中はわたしたちだけであった。
「おまえはイギリス語がわかるか」と巡査《じゅんさ》はたずねた。
「あまり早く言われなければわかります」とわたしは答えた。
「そうか。よし。それでは少しおまえに相談《そうだん》がある」とかれは言った。「法律《ほうりつ》をあなどらないようにしろ。まあどういうしだいの事件《じけん》だか、話してごらん。おまえに五シルリングやる。牢《ろう》の中で金を持っていればよけい気楽だ」
わたしはなにも白状《はくじょう》することがないと言おうとしたが、そう言うと巡査《じゅんさ》をおこらせるだろうと思って、なにも言わなかった。
「まあ、よく考えてごらん」とかれは続《つづ》けた。「で、刑務所《けいむしょ》へ行っても、向こうで、いちばん先に来た者に言わないで、わたしの所へそう言ってお寄《よ》こし。おまえのことを心配している人間のあることは、つごうのいいことだし、わたしは喜《よろこ》んでおまえの加勢《かせい》をしてやる」
わたしはうなずいた。
「ドルフィンさんと言ってお聞き。おまえ、名前を覚《おぼ》えたろうなあ」
「ええ」
わたしはドアによりかかっていた。窓《まど》はあいていて、風がふきこんだ。巡査《じゅんさ》はあまり風がはいると言って、こしかけのまん中へ席《せき》を移《うつ》した。わたしの左の手がそっと外へ回ってハンドルを回した。右の手でわたしはドアをつかんだ。数分間たった。汽笛が鳴って速力《そくりょく》がゆるんだ。
いよいよだいじなしゅんかんが来た。わたしは急いてドアをおし開けて、できるだけ遠くへとんだ。運よく前へ出していたわたしの手が草にさわった。でも震動《しんどう》はずいぶんひどかったから、わたしは人事不省《じんじふせい》で地べたに転《ころ》がった。わたしが正気に返ったとき、わたしはまだ汽車の中にいると思った。わたしはまだ運ばれているように感じたのであった。そこらを見回して、わたしは馬車の中に転がっていることを知った。きみょうだ。わたしのほおはしめっていた。やわらかな温《あたた》かい舌《した》が、わたしをなめていた。少しふり向くと、一ぴきの黄色い、みっともない犬がわたしの顔をのぞきこんでいた。マチアがわたしのそばにひざをついていた。
「きみは助かったよ」とかれは言って、犬をおしのけた。
「ぼくはどこにいるんだ」
「きみは馬車の中だよ。ボブが御者《ぎょしゃ》をしている」
「どうだな」とボブが御者台から声をかけた。「手足が動かせるか」
わたしは手足をのばして、かれの言うとおりにした。
「よし」とマチアは言った。「どこもくじきやしない」
「どうしたんだ」
「きみはぼくらの言ったとおりに、汽車からとび下りた。だが震動《しんどう》で目が回って、みぞの中に転《ころ》がりこんだ。きみがいつまでも来ないから、ボブが馬車を下りて、小山をかけ下りて、きみをうでにひっかかえて帰って来た。ぼくらはきみが死んだと思ったよ。まったく心配したよ」
わたしはかれの手をさすった。
「それから巡査《じゅんさ》は」とわたしは聞いた。
「汽車はあのまま進んだ。止まらなかった」
わたしの目はまた、そばでわたしをながめている、みにくい黄色い犬の上に落ちた。
それはカピに似《に》ていた。でもカピは白かった。
「なんだね、この犬は」とわたしはたずねた。
マチアが答える間もないうちに、そのみっともない小さな動物はわたしの上にとびかかった。はげしくなめ回して、くんくん鳴いていた。
「カピだよ。絵の具で染《そ》めたのだよ」とマチアが笑《わら》いながらさけんだ。
「染めた、どうして」
「だって見つからないようにさ」
ボブとマチアが馬車の中にうまくわたしをかくすようにくふうしてくれているあいだに、わたしは、いったいこれからどこへ行くのだとたずねた。
「リツル・ハンプトンへ」とマチアが言った。「そこへ行けば、ボブのにいさんが船を持って
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