行くことはできなかった。マチアを置《お》いて行くことはできなかった。
わたしは痛《いた》い足をいやいや引きずって競馬場《けいばじょう》に帰りかけた。やっと苦しい一時間ののち、わたしはボブの車の中でマチアとならんでねむっていた。
あくる朝ボブはルイスへ行く道を教えてくれたので、わたしは出発する用意をしていた。わたしはかれが朝飯《あさはん》のお湯をわかすところを見ながら、ふと目を火からはなして外をながめると、カピが一人の巡査《じゅんさ》に引《ひ》っ張《ぱ》られて、こちらへやって来るのであった。どうしたということであろう。
カピがわたしを見つけたしゅんかん、かれはひもをぐいと引っ張った。そして巡査の手からのがれてわたしのほうへとんで来て、うでの中にだきついた。
「これはおまえの犬か」と巡査《じゅんさ》がたずねた。
「そうです」
「ではいっしょに来い。おまえを拘引《こういん》する」
かれはこう言って、わたしのえりをつかんだ。
「この子を拘引するって、どういうわけです」とボブが火のそばからとんで来てさけんだ。
「これはおまえの兄弟か」
「いいえ、友だちです」
「そうか。ゆうべ、おとなと子どもが二人、セント・ジョージ寺へどろぼうにはいった。かれらははしごをかけて、窓《まど》からはいった。この犬がそこにいて番をしていた。ところが犯行《はんこう》中おどろかされて、あわてて窓からにげ出したが、犬を寺へ置《お》いて行った。この犬を手がかりにして、どろぼうは確《たし》かに見つかると思っていた。ここに一人いた。今度はそのおやじだが、そいつはどこにいる」
わたしはひと言も言うことができなかった。この話を聞いていたマチアは、車の中から出て来て、びっこをひきひきわたしのそばに寄《よ》った。ボブは巡査《じゅんさ》に、この子が罪人《ざいにん》であるはずがない、なぜならゆうべ一時までいっしょにいたし、それから「大がしの宿屋《やどや》」へ行って、そこの主人と話をして、すぐここへ帰って来たのだからと言った。
「寺へはいったのは一時十五分|過《す》ぎだった」と巡査《じゅんさ》が言った。「するとこの子がここを出たのは一時だから、それから仲間《なかま》に会って、寺へ行ったにちがいない」
「ここから町までは十五分|以上《いじょう》かかります」とボブが言った。
「なに、かければ行けるさ」と巡査が答えた。「それに、こいつが一時にここを出たという確《たし》かな証拠《しょうこ》があるか」
「わたしが証人《しょうにん》です。わたしはちかいます」とボブがさけんだ。
巡査《じゅんさ》は肩《かた》をそびやかした。
「まあ子どもが判事《はんじ》の前へ出て、自分で陳述《ちんじゅつ》するがいい」とかれは言った。
わたしが引かれて行くときに、マチアはわたしの首にうでをかけた。それはあたかも、わたしをだこうとしたもののようであったが、マチアにはほかの考えがあった。
「しっかりしたまえ」とかれはささやいた。「ぼくたちはきみを見捨《みす》てはしないよ」
「カピを見てやってくれたまえ」とわたしはフランス語で言った。けれど巡査《じゅんさ》はことばを知っていた。
「おお、どうして」とかれは言った。「この犬はわしが預《あず》かる。この犬のおかげできさまを見つけたのだ。もう一人もこれで見つかるかもしれない」
巡査《じゅんさ》に手錠《てじょう》をかわれて、わたしはおおぜいの目の前を通って行かなければならなかった。けれどこの人たちはわたしがまえにつかまったときの、フランスの百姓《ひゃくしょう》のように、はずかしめたりののしったりはしなかった。この人たちはたいてい巡査に敵意《てきい》を持っていた。かれらはジプシー族や浮浪者《ふろうしゃ》であった。どれも宿《やど》なしの浮浪人であった。
今度|拘引《こういん》された留置場《りゅうちじょう》にはねぎが転《ころ》がしてはなかった。これこそほんとうの牢屋《ろうや》で、窓《まど》には鉄の棒《ぼう》がはめてあって、それを見ただけで、もうどうでもにげ出したいという気を起こさせた。部屋《へや》にはたった一つのこしかけと、ハンモックがあるだけであった。わたしはこしかけにぐったりたおれて、頭を両手にうずめたまま、長いあいだじっとしていた。マチアとボブは、よし、ほかの仲間《なかま》の加勢《かせい》をたのんでも、とてもここからわたしを救《すく》い出すことはできそうもなかった。わたしは立ち上がって窓《まど》の所へ行った。鉄の格子《こうし》はがんじょうで、目が細かかった。かべは三|尺《じゃく》(約一メートル)も厚《あつ》みがあった。下のゆかは大きな石がしきつめてあった。ドアは厚い鉄板をかぶせてあった。どうしてにげるどころではなかった。
わたしはカピがお寺にいたという事実に対して
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