しかし席《せき》に着くまえに、かれは祖父《そふ》の竹のゆりいすを食卓《しょくたく》に向けた。それから自分の席《せき》をしめながら、かれは焼《や》き肉《にく》を切り始めた。背中《せなか》を火に向けて、みんなに一つずつ、大きな切れといもを分けた。
わたしはいい境遇《きょうぐう》の中に育ったわけではないが、兄弟たちの食卓《しょくたく》の行儀《ぎょうぎ》がひどく悪いことは目についた。かれらはたいてい指で肉をつかんで食べて、がつがつ食い欠《か》いたり、父母の気がつかないようにしゃぶったりした。祖父《そふ》にいたっては自分の前ばかりに気を取られて、自由の利《き》く片手《かたて》でしじゅうさらから口へがつがつ運んでいた。そのふるえる指先から肉を落とすと、兄弟たちはどっと笑《わら》った。
わたしたちは食事がすんでから、その晩《ばん》は炉《ろ》ばたに集まってくらすことと思っていた。けれども父親は友だちが来るからと言って、わたしたちにねどこに行くことを命じた。マチアとわたしに手まねをして、かれはろうそくを持って先に立ちながら、食事をした部屋《へや》の外にあるうまやへ連《つ》れて言った。そのうまやには荷台まで大きな屋台|付《つき》馬車があった。かれはその一つのドアを開けると中に小さな寝台《ねだい》二つ重なって置《お》いてあるのを見た。
「ほら、これがおまえたちのねどこだ」とかれは言った。「まあ、おやすみ」
これがわたしの家族からこの夜|初《はじ》めてわたしの受けた歓迎《かんげい》であった。
りっぱすぎる父母
父親はろうそくを置《お》いて行ったが、車には外から錠《じょう》をさした。わたしたちはいつものようにおしゃべりはしないで、できるだけ早くねどこの中へもぐった。
「おやすみ、ルミ」とマチアが言った。
「おやすみ」
マチアはわたしと同じように、もうなにもものを言いたがらなかった。わたしはかれがだまっていてくれるのがうれしかった。わたしたちはろうそくをふき消したが、とてもねむれそうには思えなかった。わたしはせま苦しい寝台《ねだい》の中で、たびたび起き返っては、これまでの出来事を思いめぐらした。わたしは上の寝台にいるマチアがやはり落ち着かずに、しじゅうねがえりばかりしている音を聞いた。かれもやはりわたしと同様、ねむることができなかった。
いく時間か過《す》ぎた。だんだん夜がふけるに従《したが》って、とりとめもない恐怖《きょうふ》がわたしを圧迫《あっぱく》した。わたしは不安《ふあん》に感じたが、なぜわたしが、そう感じたのかわからない。なにをわたしはおそれているのか。このロンドンのびんぼう町で馬車小屋の中にとまることがこわいのではない。これまでの流浪生活《るろうせいかつ》で、いく度《たび》わたしは今夜よりも、もっとたよりない夜を明かしたことがあったであろう。わたしは現在《げんざい》あらゆる危険《きけん》から庇護《ひご》されていることはわかっているのに、恐怖《きょうふ》がいよいよつのって、もうふるえが出るまでになっている。
時間はだんだんたっていった。ふとうまやの向こうの、往来《おうらい》に向かったドアの開く音がした。それから五、六|度《たび》間《ま》を置《お》いて規則《きそく》正しいノックが聞こえた。やがて明かりが馬車の中にさしこんだ。わたしはびっくりしてあわててそこらを見回した。わたしの寝台《ねだい》のわきにねむっていたカピは、うなり声を立てて起き上がった。わたしはそのときその明かりが馬車の小窓《こまど》からはいって来ることを知った。その小窓はわたしたちの寝台《ねだい》の向こうについていたのを、さっきはカーテンがかかっていたのでとこにはいるとき気がつかなかったのであった。この窓の上部はマチアの寝台《ねだい》に近く、下部はわたしの寝台に近かった。カピがうちじゅうを起こしてはいけないと思って、わたしはかれの口に手を当てて、それから外をながめた。
すると父親がうまやにはいって来て、静《しず》かに向《む》こう側《がわ》のドアを開けた。そして二人、肩《かた》に重い荷をせおった男を外から呼《よ》び入れて、やはり用心深い様子で、またドアを閉《し》めた。それからかれはくちびるに指を当てて、ちょうちんを持った片手《あたて》でわたしたちのねむっている事に指さしをした。わたしはほとんどそんな心配は要《い》りませんと言って、声をかけようとしたが、もうマチアがよくねむっていると思ったから、それを起こすまいと思って、そっとだまっていた。
父親はそのとき二人の男に手伝《てつだ》って荷物のひもをほどかせて、やがて見えなくなったが、まもなく母親を連《つ》れてもどって来た。かれのいないあいだに二人の男は荷物の封《ふう》を開いた。中にはぼうしと下着とくつ下
前へ
次へ
全82ページ中58ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
楠山 正雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング