が行ったか、話してあげよう」とかの女は意味ありげにわたしの顔をながめて言った。
「まあ先にどら焼《や》きを食べようよ」とわたしは言った。「あの人のことは言わないことにしよう。ぼくはあの人が四十フランでぼくを売ったことを忘《わす》れない。あの人がこわいんで、あの人がまたぼくを売るのがこわいんで、ぼくはここへ様子を知らせることをがまんしていたのだ」
「ああ、きっとそれはそうだと思うよ」とかの女は言った。「でもバルブレンさんのことを悪くお言いでないよ」
「まあ、どら焼《や》きを食べようよ」とわたしはかの女にぶら下がりながら言った。
わたしたちはみんなでさっそく材料《ざいりょう》をこなし始めた。そしてまもなく、マチアとわたしはどら焼きに舌《した》つづみをを打った。マチアはこんなうまいものを食べたことはないと言った。わたしたちが一さらを平《たい》らげると、すぐにつぎのさらにかかった。カピもおすそわけにあずかりに来た。バルブレンのおっかあは、犬にどら焼きをやるなんてもったいないと言ったが、わたしたちはカピが一座《いちざ》の主《おも》な役者で、そのうえ天才であることを説明《せつめい》して、なんによらずだいじにあつかっているのだと言い聞かした。
やがてマチアがあしたの朝使うまきを取りに出て行ったあいだに、かの女はバルブレンがなぜパリへ行ったか話して聞かせた。
「おまえの家族の人たちがおまえを探《さが》しているのだよ」とかの女はほとんど聞こえないほどの小声で言った。「バルブレンがパリへ出かけたのは、そのためなのだよ。あの人はおまえを探しているのだよ」
「ぼくの家族」とわたしはさけんだ。「おお、わたしにも家族があるのですか。話してください。残《のこ》らず。ねえ、おっかあ。バルブレンのおっかあ」
このときふとわたしはこわくなってきた。わたしは自分の一家がほんとうに自分を探していることを信《しん》じなかった。バルブレンはまたわたしを売るために、わたしを探そうとしているのだ。今度こそわたしは売られるものか。
こう言ってわたしはバルブレンのおっかあにその心配を話した。けれどかの女はそうではない、わたしの一家がわたしを探《さが》しているのだと言った。
それからかの女はいつか一人の紳士《しんし》がこのうちへやって来て、外国のなまりのあることばで話をして、いく年かまえパリで拾った赤子はどうしたかとバルブレンにたずねたことを話した。するとバルブレンはその人に、ぜんたいそれになんの用があるのだと言ったそうだ。この返事はいかにもバルブレンのしそうな返事であった。
「ほら、パン焼《や》き場《ば》から、台所で言っていることはなんでも聞こえるだろう」とバルブレンのおっかあが言った。「二人がおまえさんの話をしているときわたしはむろん聞いていた。わたしはもっとそばに寄《よ》って、そこでまきを折《お》っていた。
『おや、だれかいますね』とその紳士《しんし》はバルブレンに言ったよ。
『ええ、います。なあに家内《かない》ですよ』とあの人は答えた。すると、そのお客は『台所はたいへんむし暑いからいっそ外へ出て話しましょう』と言った。二人は出かけて行って、三時間あとでバルブレンだけが一人で帰って来た。わたしはあの人からなにかを残《のこ》らず聞き出そうとしたが、あの人がやっと言ったことは、さっきのお客がおまえを探《さが》していること、でもその人はおまえのお父さんではないこと、それから百フラン、お金をくれたことだけだった。たぶんあの人はそののちもっともらったろう。そういうことがあるし、あの人がおまえさんを拾ったときりっぱな着物をおまえさんが着ていたというから、おまえさんので両親はきっとお金持ちにちがいないと思うのだよ。それからジェロームはパリへ行って来ると言ってね」とかの女は続《つづ》けた。「おまえさんをやとい入れた音楽師《おんがくし》を訪《たず》ねるためにね。あの音楽師がおまえさんを連《つ》れて行ったときの話では、ルールシーヌ街《まち》のガロフォリという男にあてて手紙をやれば着くと言っていたそうだよ」
「それで、バルブレンさんが出かけてから、なにか便《たよ》りがありましたか」とわたしはたずねた。
「いいえ、ひと言も」とかの女は言った。「わたしはあの人が町のどこに住んでいるかも知らないよ」
ちょうどそこへマチアがはいって来た。わたしは興奮《こうふん》しながら、かれに向かって、わたしにうちのあること、両親がわたしを探《さが》していることを話した。かれはわたしのために喜《よろこ》ぶとは言ったが、わたしだけのゆかいと興奮をともに分けて感じているとは見えなかった。
古い友だちと新しい友だち
わたしはその晩《ばん》すこししかねむらなかった。バルブレンのおっかあはわたしに、
前へ
次へ
全82ページ中49ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
楠山 正雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング