った顔をしないで見ておいで」という様子をした。
 そのお客がすんでしまうと、エピナッソー氏《し》は、タオルをうでにかけて、マチアの髪《かみ》をかる用意をした。
「ねえ、あなた」と、床屋《とこや》さんがかれの首に布《ぬの》を巻《ま》きつけるあいだにマチアが言った。「音楽のことで友だちとぼくにわからないことがあるんです。なんでもあなたは名高い音楽家だと聞いていましたから、二人の争論《そうろん》をあなたにうかがったら、なんとか判断《はんだん》していただけるかと思うのです」
「なんですね、それは」
 そこでわたしはマチアの考えていることがわかった。まず先に、かれはわたしたちの質問《しつもん》にこの床屋《とこや》さんの音楽家が答えることができるか試《ため》そうとした。いよいよできるようだったら、かれは散髪《さんぱつ》の代で、音楽の講義《こうぎ》を聞くつもりであった。
 マチアは髪《かみ》をかってもらっているあいだ、いろいろ質問を発した。床屋さんの音楽家はひどくおもしろがって、かれに向けられるいちいちの質問を、ずんずんゆかいそうに答えた。
 わたしたちが出かけようとしたとき、かれはマチアに、ヴァイオリンで、なにかひいてごらんと言った。マチアは一曲ひいた。
「いやあ、それでもきみは、音楽の調子がわからないと言うのかい」と床屋《とこや》さんは手をたたきながら言った。そしてむかしから知り合って愛《あい》している子どもに対するようになつかしそうな目で、マチアを見た。
「これはふしぎだ」
 マチアは楽器《がっき》の中からクラリネットを選《えら》んで、それをふいた。それからコルネをふいた。
「いやあ、この子は神童《しんどう》だ」とエピナッソー氏《し》はおどり上がって喜《よろこ》んだ。「おまえさん、わたしの所にいれば、大音楽家にしてあげるよ。朝はお客の顔をそるけいこをする。あとは一日音楽をやることにする。わたしが床屋《とこや》だから、音楽がわからないと思ってはいけない。だれだって毎日のくらしは立てなければならない」
 わたしはマチアの顔を見た。なんとかれは答えるであろう。わたしは友だちをなくさなければならないか。わたしの仲間《なかま》を、わたしの兄弟を失《うしな》わなければならないか。
「マチア、よくきみのためを考えたまえよ」とわたしは言ったが、声はふるえていた。
「なに、友だちを捨《す》てる」と、かれは自分のうでをわたしのうでにかけながらさけんだ。「そんなことができるものか。でも先生、やはりあなたのご親切はありがたく思っていますよ」
 エピナッソー氏《し》はそれでもまだ勧《すす》めていた。そしていまにかれをパリの音楽学校へ出す方法《ほうほう》を立てる、そうすればかれは確《たし》かにりっぱな音楽家になると言った。
「なに、友だちを捨《す》てる、それはどうしたってできません」
「そう、それでは」と床屋《とこや》さんは残念《ざんねん》そうに答えた。「わたしが一|冊《さつ》本をあげよう。わからないことはそれで知ることができる」こう言ってかれは一つの引き出しから、音楽の理論《りろん》を書いた本を出した。その本は古ぼけて破《やぶ》れていた。けれどそんなことはかまうことではない。ペンを取ってこしをかけて、かれはその第一ページにこう記《しる》した。
「かれが有名になったとき、なおマンデの床屋《とこや》を記憶《きおく》するであろうその子におくる」
 マンデにはほかにも音楽の先生があるかどうか、わたしは知らないけれど、このエピナッソー氏《し》がたった一人知っている人で、しかも一生|忘《わす》れることのできない人であった。


     王子さまの雌牛《めうし》

 わたしはマンデに着くまえにもむろんマチアを愛《あい》していたけれど、その町を去るときにはもっともっとかれを愛していた。わたしは床屋《とこや》さんの前でかれが「なに、友だちを捨《す》てる」とさけんだとき、どんな感じがしたか、ことばで語ることはできなかった。
 わたしはかれの手をとって強くにぎりしめた。
「マチア、もう死ぬまではなれないよ」とわたしは言った。
「ぼくはとうからそれはわかっていた」とかれはあの大きな黒い目で、わたしににこにこ笑《わら》いかけながら答えた。
 なんでもユッセルでさかんな家畜市《かちくいち》があるということを聞いたので、わたしたちはそこへ行って、雌牛《めうし》を買うことに決めた。それはシャヴァノンへ行く道であった。わたしたちは道みち通る町ごとに村ごとに音楽をやって、ユッセルに着いたじぶんには、二百四十フランも金が集まっていた。わたしたちはこれだけの金をためるには、それこそできるだけの倹約《けんやく》をしなければならなかった。でもマチアはわたし同様|雌牛《めうし》を買うことに熱心《ねっしん
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