の先生から教えてもらわなかった」
「でもぼくはその先生に、きみの金からお礼を出さなければならなかったから」
 わたしはマチアが、そんなふうに「ほんとうの先生」などと言うのがしゃくにさわっていた。けれどわたしのばかな虚栄心《きょえいしん》はかれのいまのことばを聞くと、すうとけむりのように消えて行かなければならなかった。
「きみは人がいいなあ」とわたしは言った。「ぼくの金はきみの金だ。やはりきみがもうけてくれたのだ。きみのほうがたいていぼくよりもよけいもうけている。きみは好《す》きなだけけいこを受けるがいい。ぼくもいっしょに習うから」
 さてその先生は、われわれの要求《ようきゅう》する「ほんとうの先生」は、いなかにはいなかった。それは大きな町にだけいるようなりっぱな芸術家《げいじゅつか》であった。地図を開けてみて、このつぎの大きな町は、マンデであることがわかった。
 わたしたちがマンデに着いたのは、もう夜であった。つかれきっていたので、その晩《ばん》はけいこには行かれないと決めた。わたしたちは宿屋《やどや》のおかみさんに、この町にいい音楽の先生はいないかと聞いた。かの女はわたしたちがこんな質問《しつもん》を出したので、ずいぶんびっくりしたと言った。わたしたちはエピナッソー氏《し》を知っているべきはずであった。
「ぼくたちは遠方から来たのです」とわたしは言った。
「ではずいぶん遠方から来たんですね、きっと」
「イタリアから」とマチアが答えた。
 そう聞くと、かの女はもうおどろかなかった。なるはどそんな遠方から来たのでは、エピナッソー先生のことを聞かなかったかもしれないと言った。
「その先生はたいへんおいそがしいんですか」とわたしはたずねた。そういう名高い音楽家では、わたしたちのようなちっぽけなこぞう二人に、たった一度のけいこなどめんどうくさがってしてくれまいと気づかった。
「ええ、ええ、おいそがしいですとも。おいそがしくなくってどうしましょう」
「あしたの朝、先生が会ってくださるでしょうか」
「それはお金さえ持って行けば、だれにでもお会いになりますよ……むろん」
 わたしたちはもちろん、それはわかっていた。
 その晩《ばん》ねに行くまえ、わたしたちはあしたこの有名な先生にたずねようと思っている質問《しつもん》の箇条《かじょう》を相談《そうだん》した。マチアは求《もと》めていた「ほんとうの音楽の先生」を見つけたので、うれしがってこおどりしていた。
 つぎの朝、わたしたちは――マチアはヴァイオリン、わたしはハープと、てんでんの楽器《がっき》を持って、エピナッソー先生を訪《たず》ねて行くことにした。わたしたちはそういう有名な人を訪《たず》ねるのに犬を連《つ》れて行く法《ほう》はないと思ったから、カピは置《お》いて行くことにして、宿屋《やどや》の馬小屋につないでおいた。
 さて宿屋のおかみさんが、先生の住まいだと教えてくれたうちの前へ来たとき、わたしたちは、おやこれはまちがったと思った。なぜなら、そのうちの前には小さな真《しん》ちゅうの看板《かんばん》が二|枚《まい》ぶら下がっていて、それがどうしたって音楽の先生の看板ではなかった。そのうちはどう見ても床屋《とこや》の店のていさいであった。わたしたちは通りかかった一人の人に向かって、エピナッソー先生のうちを教えてくださいとたのんだ。
「それそこだよ」とその男は言って、床屋の店を指さした。
 だがつまり先生が床屋《とこや》と同居《どうきょ》していないはずもなかった。わたしたちは中へはいった。店ははっきり二つに仕切られていた。右のほうにははけ[#「はけ」に傍点]だの、くし[#「くし」に傍点]だの、クリームのつぼだの、理髪用《りはつよう》のいすだのが置《お》いてあった。左のほうのかべやたなにはヴァイオリンだの、コルネだの、トロンボンだの、いろいろの楽器《がっき》がかけてあった。
「エピナッソーさんはこちらですか」とマチアがたずねた。
 小鳥のように、ちょこちょこした、気の利《き》いた小男が、一人の男の顔をそっていたが、「わたしがエピナッソーだよ」と答えた。
 わたしはマチアに目配せをして、床屋《とこや》さんの音楽家なんか、こちらの求《もと》めている人ではない。こんな人に相談《そうだん》をしても、せっかくの金がむだになるだけだという意味を飲みこませようとしたが、かれは知らん顔をして、もったいぶった様子で一つのいすにこしをかけた。
「そのかたがそれたら、ぼくの髪《かみ》をかってもらえますか」とかれはたずねた。
「ああ、よろしいとも。なんなら、顔もそってあげましょう」
「ありがとう」とマチアが答えた。わたしはかれのあつかましいのに、どぎもをぬかれた。かれは目のおくからわたしをのぞいて、「そんな困《こま》
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