立ち止まっていたかもしれなかったが、ふとかくしにある固《かた》い丸《まる》いものが手にさわった。わたしの時計であった。
 ありったけのわたしの悲しみはしばらくのあいだ忘《わす》れられた。わたしの時計だ。自分の時計で時間を知ることができるのだ。わたしは時間を見るために、それを引き出した。昼だ。それは昼であろうと、十時であろうと、十一時であろうと、たいしたことではなかった。でもわたしは昼であるということがたいそううれしかった。それがなぜだか言うのはむずかしい。けれどそういうわけであった。わたしの時計がそう知らせてくれる。なんということだ。わたしにとって時計は相談《そうだん》をしたり、話のできる親友であると思われた。
「時計君、何時だね」
「十二時ですよ、ルミさん」
「おやおや。ではあれをしたり、これをしたりするときだ。いいことをおまえは教えてくれた。おまえが言ってくれなければ、ぼくは忘《わす》れるところだったよ」
 わたしのうれしいのにまぎれて、カピがほとんどわたしと同様に喜《よろこ》んでいてくれることに気がつかなかった。かれはわたしのズボンのすそを引《ひ》っ張《ぱ》って、たびたびほえた。かれがほえ続《つづ》けたときわたしは初《はじ》めて、かれに注意を向けてやらなければならなかった。
「カピ、なんの用だい」とわたしはたずねた。かれはわたしの顔をながめた。けれどわたしはかれの意味が解《と》けなかった。かれはしばらく待っていたが、やがてわたしの前に来て、時計を入れたかくしの上に前足をのせて立った。かれはヴィタリス親方といっしょに働《はたら》いていたじぶんと同じように、「ご臨席《りんせき》の貴賓諸君《きひんしょくん》」に時間を申し上げる用意をしていたのであった。
 わたしは時計をかれに見せた。かれはしばらく思い出そうと努《つと》めるように、しっぽをふりながらそれを、ながめたが、やがて十二|度《たび》ほえた。かれは忘《わす》れてはいなかった。わたしたちはこの時計でお金を取ることができる。これはわたしがあてにしていなかったことであった。
 前へ進め、子どもたち。わたしは刑務所《けいむしょ》に最後《さいご》の目をくれた。そのへいの後ろにはリーズの父親が閉《と》じこめられているのだ。
 それからずんずん進んで行った。なによりもわたしに入り用なものは、フランスの地図であった。河岸《かし
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